春待ちの宵だった。
昼間はあんなにも暖かいというのに、夜になると非道く冷える。
朧に揺らめく月は、細く撓る弓を象っていた。
下弦の月の浮かぶ夜。
全てが影となり、地上にぼんやりと姿を作る。
爆音のような音が響いたかと思うと、影が一つ崩れて消えた。
「人間の女などに現を抜かす貴様が、私を殺せるものか」
低く、唸るような声が大地に染み込む。
岩が崩れる音によく似ていた。
龍に酷似した巨体の額の辺りに、顔のようなものが浮かび上がっている。
「その傷、浅くは無かろうに」
彼は身軽に崖の一つへと飛び移り、身の丈十倍以上もある敵を見下ろした。
構えた刀の鍔は毛皮のようで、刃は広く厚い牙のようであった。
銘を、鉄砕牙。
百の妖怪を薙ぎ払う刀。
「それは貴様とて同じこと」
歯噛みして、高みを睨んだ。
彼の背に浮かぶ月は、まるで彼を加護しているようにも見える。
ぞっとするほどの美しさ。
風が、銀に煌く髪を攫う。
「竜骨精よ、何故そのように私を憎む」
竜骨精と呼ばれた妖怪は、あちこちの斬られた傷から、どくどくと血を流している。
彼もまた、おかしな感覚のする腕を、恨めしげに睨んだ。
恐らく岩石が飛んで来た時に当たったのだろう。
頬の横一線に薙がれた傷からは、一筋の血が流れる。
彼は手の甲で、頬の傷を拭う。
凝固しかけていた血液は、横に広がるだけだった。
鎧を砕かれた腹部には惨たらしい切傷が在る。
じわりと着物が紅く滲む。
避け損なった傷だ。
「我等が強き者であるが故に、我等は闘う。憎み合う」
ずん、と腹に響く声で、竜骨精は口を開いた。
「それが道理」
巨体が動けば、地鳴りが響く。
地震が続いているようなものだ。
半ば足を引き摺るようにして、彼へと近付いた。
「我等妖怪は、そのようにして生きて来た」
白い顔が、ねっとりと彼を見上げた。
細い眼は、闘えることを喜んでいる。
彼は微かに眉を顰めたが、背に浮かぶ月が表情を隠す。
「今更、共に歩んで行くことなど出来ぬ」
腕を振り上げ、崖を削る。
がらがらと、けたたましく彼の立っていた崖が切り崩された。
鉄砕牙、と呼べば、応えるように響く慟哭。
宙に跳びあがると同時に、太刀を横に薙いだ。
竜骨精の腕を掠り、血飛沫が上がる。
音も無く地上へと降り立つと、鉄斎牙を鞘へと戻した。
「闘い、勝ち取るのが我等が生き方」
砂埃が、濛々と辺り一面を覆った。
「そうで、在ったな」
正面に対峙し、目を閉じる。
軽く、口の端が吊り上げられた。
「先を見据えるのならば、闘え、山犬」
竜骨姓が追い立てる。
闘え、と言霊をぶつけた。
強く目が見開かれると、その目は紅く染まり行く。
「ならば、此れで終わりだ」
朗々と宣言した彼の声が、きん、と響き渡った。
目尻が吊り上り、口が裂ける。
牙が畏ろしい程に尖る。
鼻筋が獣のそれと同じに成っていく。
地響きと共に、大地に佇む白い獣。
その上背は、竜骨精と同じかそれ以上。
一度吠えれば、周りの木々がざわりと波立つ。
大地を爪で抉り、敵へと駆ける。
竜骨精は避けなかった。
己に絶対の自信を持っていたのかもしれない。
金剛石の如く硬き身体にぶつかると、白い獣の胴体がみしりと鳴る。
唸り、身体に噛み付こうとしたが、突き刺さる前に削れ、宙を噛んだ。
その瞬間、竜骨精は体を傾け、圧し掛かる。
短いくぐもった声が漏れた。
苦しげに地面を引っ掻き、逃れようと足を動かす。
己が身に刻まれた、幾つもの傷が唐突に疼き始めた。
身体が重くなっていく。
竜骨精の付けた傷に毒性が在ったのだと、気付いた時には遅かった。
特に深い腹部の傷が、悲鳴をあげて血を吐く。
尋常ではないはずの回復力が、全く役に立っていない。
塞がらぬ傷口。
勝負が見えた。
それは竜骨精が、にやりと卑しく口を歪めた時だった。
龍の口元から、雷光に似たものが迸る。
次に訪れるであろう瞬間に、歓喜で身を震わせる正にその時。
彼は渾身の力を込め、竜骨精を押し戻した。
前足の爪が、ずぶりと敵の体に埋まっていく。
悲鳴をあげる間もなく、大きく削られた岩肌に、音を立ててぶつかった。
続けて何かが抉れる、不快な音が耳に届いた。
寸での所で踏み止まり、何とか自力で立つ。
顔を上げれば、竜骨精の心の臓には、深々と彼の爪が食い込んでいた。
爪が剥がれた部分からは、血が止め処無く流れている。
「貴様、は…甘過ぎ、る」
閉じかけた瞳を凝らし、竜骨精は口を開いた。
段々とヒトの形へと変化していく彼は、息を荒くして見上げる。
腕を抑え、耐え切れず片膝を着いた。
「それが、何時、か、命取りに、なる、ぞ」
絶え絶えに紡がれる言の葉。
それが最期だった。
瞳は閉じられ、竜骨精は動きを止めた。
封印出来ただけでも良しとせねば。
身が持たなかったのは、あちらだけでは無かった。
殺さなかったのでは無い。
殺せなかっただけなのだ、と言い聞かせて。
倒れ込み、空を仰いだ。
手で抑えるだけでは塞がらない。
深緋に染まった腕を掲げる。
この闇夜ではどす黒く見えていることだろう。
「もう、なっているやも織れぬな」
自嘲気味な笑みを浮かべ、腕を脇に落とす。
呟き、彼は意識を手放した。
闘い続けることこそが、妖かしの宿業であるというのなら、
それは何とさもしいものであろう。
岩場ばかりの殺風景な土地。
何度来ても、土の匂いに噎せ返る。
「来たか」
禍々しい大きい髑髏を入り口にした洞窟。
変わり者の刀鍛冶は、自分の背後に立った青年に手を突き出した。
「貸せ」
青年は無言で腰から刀を抜き取り、鞘ごと彼に渡した。
鞘から抜けば、刃の広い刀へと変化する。
裏を返したり、持ち心地を確かめたりしながら、刀々斎は鉄砕牙を眺めた。
「百の妖怪を薙ぎ払う刀。それは裏を返せば、天下を取るに足る刀」
ふぅむ、と唸って、研ぎ台へとそれを置いた。
くるりと背を向ける。
「悪しき者の手に渡れば、動乱は必死じゃろうな」
背負っていた長い金槌で、一度刃を叩く。
高い音が洞窟の中で響いた。
「刀々斎」
ずっと黙っていた青年が口を開く。
その双眸は、哀しみとも悔しさともつかぬ色を湛えていた。
「分かっとる」
彼に背を向けたまま、小さく頷いた。
ぼりぼりと頭を掻く。
縮れた白髪が重たそうに揺れている。
「御前さんの惚れた女を護る為の刀じゃろう」
まぁ座れ、と金槌の柄で地面を指した。
言われるがままに、彼は腰を下ろす。
「じゃが、過ぎた力を欲する者も居る。それも事実」
もう一度、刃を槌で叩くと、口から明々とした炎を噴出した。
一瞬にして、洞窟の中が橙に染まる。
照らし出された青年の面は、きつく顰められている。
「ちぃっと、細工をしてやろう」
黙ってしまった彼に、刀々斎は口を開いた。
「刀鍛冶っつぅのはな、犬の大将」
独り言のような、呟きにも似た言の葉。
聞いていなくとも構わない。
そう、思わせる声音だった。
「刀を打つだけじゃ、半人前なんじゃ」
言いながら、老人は刀を鍛え続ける。
高い音と、高熱が洞窟の中にひしひしと広がる。
目に映る背中は丸く屈められ、彼が老人なのだと思い出させた。
「打った刀が、どれだけ使う主の気持ちを読み取ってくれるか。そこまで考ることが出来て、やっと一人前」
傍の桶に入っていた冷水を一気に掛ける。
じゅわ、と音を立てて、蒸気が辺りを覆った。
視界を奪われる。
「手足となる武器ってのは、詠い文句じゃ無ぇ」
金槌で叩くと、今度は先程に比べて鈍い音がする。
紅く燃え上がる刀身は、別の生き物のようにも見えた。
ぼんやりと浮かび上がるように、紅い刀が目に映る。
「その通りじゃなきゃ、意味が無ぇんだ」
火花が飛び散り、地面に吸い込まれるようにして消えて行く。
「ま、こりゃ儂の師匠の受け売りだけどな」
軽く肩越しに振り返り、笑った。
直ぐに視線を戻す。
「つまり、だ。御前さんの想いを継いでくれる奴が手にしてくれたら良い訳だ」
仕上げに刃を研ぐと、刀を鞘に納めた。
彼が投げて寄越したように、鉄砕牙を返す。
「ほらよ」
受け取り、束に触れた。
気付かない程の微かな違和感。
彼は刀を凝視した。
「これ、は」
感じる波動。
脈打つ慟哭とは、また別の氣の流れ。
刀が秘めた力。
刀々斎はそれを引き出しただけに過ぎない。
簡単にやってのけるのは、彼が名匠と呼ばれる所以。
「鼻が利かずとも分かる。ヒトと玉の緒の縁を結んだな」
ふぅっと息を吐き、片膝を立てて座る。
壁に凭れ掛かれば、背中はひんやりと心地良い。
「生まれるやや子は、半妖」
目を閉じて、体重を背に預ける。
背筋を正して座っている青年とは、雲泥の差。
けれど、彼は気にした様子も、気分を害した様子も無い。
「何を危惧するかくらいは、分かっとるつもりじゃ」
溜息にも似た呟きを漏らす。
彼の目が揺らぎ、瞬いた。
「その、通りだ」
小さく俯くと、唇を噛む。
眉根を寄せると、端整な顔立ちが険しくなった。
「私は畏れている」
膝の上で固められた拳が、ぎゅ、と更に強く固められる。
ざ、と衣擦れの音が耳を掠める。
刀々斎は目を開けて、彼を見やった。
「ヒトでも在り、妖怪でも在る。それが半妖」
ヒトと妖かしの縁は、理に背いたもの。
故にどちらからも必要とされず、疎まれた。
背負わせた宿業は、重く、大きい。
背負うのが己ではないから、余計に苦しい。
「それ故に、もし妖怪の血が目覚めてしまえば」
ヒトでないものはヒトには成れない。
妖かしでないものは、妖かしには成れない。
保たれている均整が失われた時、失われるものが在る。
彼は、それを畏れた。
「自我を失い、殺戮を楽しむだけの化け物に成る、か」
呟く声に、彼は益々眉間に皺を刻む。
どっこいしょ、と座り直し、彼にまた背を向ける。
竈の中を覗き込んだ。
「おっかねぇな」
刀々斎は、呟く。
「自分の子どもがそんなもんに成り下がるなんて、おっかねぇ」
親になったことはない。
けれど、親になった仲間を見て来た。
ヒトだろうが、妖かしだろうが、所詮は親。
想像することしかままならないが、
自分の子どもが、ただの醜い化け物に成り下がるなどと、
彼であっても、考えるだけでも身の毛が弥立つ。
「如何だ、犬の大将」
そうして、非道く哀しい気持ちになった。
本当の親である彼は、どんな想いを抱えているのだろうか。
「その刀は、御前さんの気持ちを汲んでくれそうか?」
手の中にある重みを、しっかりと掴む。
胸に頂くと、彼は頷き、微笑んだ。
「きっと」
感じた違和感は、大きくなる。
彼の刀が秘めたる力は、護りの力。
妖かしの血を眠らせるなど容易い程の。
気高き力を宿す剣は、扱う主を選ぶであろう。
流石は刀々斎、褒めれば、鼻を鳴らしてもう一度竈の中を覗いた。
照れているのだろうか。
彼は苦笑する。
立ち上がり、老人の背中に一礼すると、踵を返した。
髑髏の口から出て行く間際、彼は振り向きもせずに口を開いた。
「天生牙は、殺生丸に。鉄砕牙は、これから生まれ来る息子に与えようと思っている」
カチャリ、と鍔が腰元で鳴る。
外から飛び込んでくる光で、大きく影が岩肌に映った。
「犬の大将」
奥から木霊して声が跳ねた。
彼は肩越しに振り返り、未だ背を向ける老人に視線を投げる。
「腹の傷、早々と治しておけよ」
微かに目を見開き、そうして苦笑した。
ただ微笑むだけで、是とは答えなかった。
「行かんでえぇんか、冥加」
溜息を吐くと、彼の頭から一匹の蚤が飛び降りた。
「動けば傷に触ると言うに、ちっともヒトの言うことを御聞きにならん」
織るものか、と小さな肩を震わせて俯く。
声が掠れていたのは、聞かなかったことにしておこう。
刀々斎は懐に手を突っ込み、腹を掻いた。
遺言など、聞きたくも無かったと言うのに。
最期まで、誰が捻くれ者か分からなかった。
運ばれてきた食事を口にしようと、膳に手を伸ばす。
いつもならば、良い薫りのする汁物や粟飯が此処数日やけに鼻に付いた。
それらに手を付けず、小皿に載せられた香の物に箸を付ける。
「姫様、如何なさいました?」
それに気付いた乳母が、彼女の膳を見やる。
殆どの椀は減っておらず、喉を通らないと言った風であった。
身体を壊して、食欲が無いのかもしれない。
そう思って、取敢えず白湯を差し出した。
「また、御加減が?それならば、粥でも作らせましょう」
「いいえ、違うの。そうでは、無いの」
十六夜は、立ちかけた乳母の袖を引こうと顔を上げた。
然し、それは叶わなかった。
くらりとした眩暈が襲い、酷い嘔吐感が込み上げる。
思わず口元を抑えた。
蹲った少女に、乳母は慌てて膝を着く。
「誰か、薬師を呼んで頂戴!」
彼女を支えながら、傍に控えている雑色に声をかけた。
直ぐに、薬師が訪うだろう。
それまでに床を用意させて、姫を休ませなければ。
幼少の砌より付き添ってきた乳母は、状況を把握しながら、適確な判断をしていく。
少女が倒れることなど、珍しくは無かった。
膳を下げ、床を用意し、衾を十六夜に掛けた頃に薬師は訪った。
手桶に満たされた水で、手を清めながら薬師は口を開いた。
十六夜の傍らに掛けていた館主は、
次に発せられる言葉を落ち着かない面持ちで待っている。
「御懐妊されておりまする」
見開かれる眼。
思わず身を乗り出した。
狩衣から出た皺枯れた手の甲は、彼がもう年若くないことを物語る。
「身篭っておると、申すのか」
「恐らくは」
軽く頷き、薬師の老人は穏やかに微笑んだ。
ようございしたなぁ、とゆっくり祝詞を告げ、一礼して退室する。
「一体、何処の」
身篭るなど皆無ではと思われた娘の腹に、子どもが宿っている。
喜びとも、感激ともつかぬ感情が、頬を緩めた。
まさか、賊の仕業ではないだろう。
寝ず番が必ず塀の外に立っている。
だとしたら、門番が通したとしか考えられない。
此処数日は仕事の為、屋敷を離れていたので、
通う者の話が耳に入らなかっただけのだろう。
共に連れて行っていた家臣達に同意を求める。
彼等は、そうでしょうとも、と頷いた。
「どちらの殿方が通われていたのだ、十六夜」
どのような御仁だ、と問う父に、十六夜は瞼を伏せる。
「強く、気高き御方。美しく、優しい御方」
浮かび上がるのは、月に煌く雄々しき姿。
棚引く髪は、絹のよう。
時折、鋭く細められる目元は、十六夜に気付くと優しく揺らめく。
「御前も望んだ縁と?」
伏していた身体を起こし、こくりと頷いた。
「はい」
居ても立ってもいられず、館主は立ち上がる。
忙しなく、右往左往したかと思うと、御簾を勢いよく掲げた。
「こうしては居られん、婚儀の準備をせねば」
三日夜餅でも準備するか、と嬉しそうに笑う。
そのような慣習は、既に廃れたというのに。
十六夜は苦笑した。
この世を治める武士は、北の方となる女性を、己が城へと住まわせると聞く。
平安の世は、妻問い婚が常であった。
世が変われば、慣習も、常も変わる。
貴族の常とて、変わって行くのだ。
「申し上げます、御館様」
庭に控えていた武丸が、簀子縁に出た館主に膝を付いている。
十六夜はたじろぎもせず、目を閉じた。
この場面を、想像しなかった訳ではない。
「如何した、武丸」
呼ばれ、顔を上げた。
恐らく決意に満ちた面をしているのだろう。
此方からでは、表情がよく見えない。
「この刹那武丸、御館様に如何しても御伝えせねばならないことがございます」
今にも宴を開きそうな主に、彼は眼光を鋭くする。
嘆息して、館主は彼の進言を急かした。
「如何した、このように愛でたき日に」
晴れ着の裳を用意せねば。
この際、家財を売り払っても構わぬから、立派な衣を仕立てよう。
そのようなことを、呟いている主へ、彼は一息置いて口を開いた。
「十六夜様の仰る彼の御仁は、人外のものにございます」
はたり、と館主の動きが止まる。
眉間には険しく皺が刻まれていた。
「何と。かような戯言、誰であろうと赦さぬぞ」
紅くなりながらも、蒼ざめて行く様は珍しい。
「この首を賭しても、そのようなことは」
真っ直ぐに射る眼差しに、館主の思いは揺らぐ。
信じられない様で、御簾の中を振り返った。
「十六夜、誠か」
顔を上げる。
目を逸らそうとはしなかった。
偽ろうとせず、彼女はただ頷いた。
「はい」
よろめき、柱にぶつかる。
左右に首を振ると、口元を真一文字に食い縛った。
「何、と」
けれど、十六夜は続けた。
決して己の行動を、恥じてはいない。
全ては自分が望んだこと。
「我が背の君は、日ノ本の国を統べる大妖怪。私は、妖しの君の御子を身篭っております」
たん、と簀子を踏むと、館主は十六夜に背を向ける。
「乳母は居るか」
「此処に」
丁度、廊下の曲がり角付近に座していたらしい。
手を付いて、頭を深く垂れる。
「旅支度を早急に整えよ」
その言葉に首を傾げながら、顔を上げた。
西日が差してきた。
主の面立ちは翳っていて、覗えない。
ただ、静かな激昂が見えた。
「御館様、何処へ?」
言静かに告げるも、それは怒りとも付かぬ声音。
何も湛えぬ音だからこそ、畏ろしかった。
「陸奥の館へと、十六夜を移すのだ」
「父上!」
声高に叫ぶ。
「生まれた子供は、即刻射殺せ。叶わぬのならば、生きながらに燃やせ」
目を見開き、衾を退かした。
腰を浮かせると、眩暈がしてそのまま倒れ込む。
何とか顔だけを動かして、父を見上げた。
「ヒトの所業の方が、余程恐ろしいではありませぬか!」
このような傍若無人な父を、十六夜は初めて見た。
いつも穏やかに微笑みかけてくれる父は、何処に行ったのだろう。
それとも、あちらが幻想で、此方が現実だったのだろうか。
「腕に覚えのある者を館の警備へ。祈祷師も呼べ。陰陽師でも、法師でも構わん」
十六夜は、重たいだけの四肢を恨めしく睨み付ける。
そうして、哀しくなった。
涙が零れる。
「十六夜に近付こうとする物の怪を討ち取った者には、褒美を遣わそう」
臣下全てに聞えるように、高らかに告げた。
「父上」
掠れる声は、届かない。
零れる涙を拭う腕すら動かない。
「十六夜。全て、悪ろしき夢であったと、忘れるのだ」
肩越しにも振り返ろうとしない父の背を、哀しげに見つめる。
このようなつもりでは、無かった。
父を落胆させるつもりも、傷つけるつもりも。
「父上」
哀しかった。
父の思い通りにならない自分が、歯痒かった。
想い、想い合ったのが、ヒトであれば良かったのだろうか。
ヒトでなければ、ならなかったのだろうか。
けれど、もう、遅い。
愛おしいと想ったのはひとでなし。
他のヒトを愛おしいと、想えようはずもない。
「子供を産み、殺した後に、良き婿殿を迎えよう」
父の提案は、昔の十六夜であれば是と頷いたであろう。
父の為ならば、と喜んで頷いたであろう。
けれど、今は出来ない。
「父上!」
少女の心は、嵐に攫われてしまった。
月に、奪われてしまった。
もう、戻らない。
薄暗く、狭い塗籠に座し、十六夜は目を閉じていた。
ふと、微かな声が耳に届く。
「十六夜様」
目を薄らと開き、膝元を見やる。
何かが跳ねた。
「冥加」
彼女は緊張していた頬を綻ばせた。
口元に手をやり、しぃ、と呟く。
「御静かに。外に聞えてしまいます故」
塗籠の隙間から、そ、と外を見やる。
如何やら聞えては居ないようだ。
安心して胸を撫で下ろした。
「あのヒトは」
言われて、冥加は一瞬目を見張る。
十六夜が気付かないほどの、刹那の刻。
決して無事ではない。
健やかで在るとは言い難い。
ただ、彼女に告げるには余りに酷だと判断した。
「元気にして居られますよ」
無難な言葉を選び、口を開く。
「そう、良かった」
嬉しそうに微笑む少女が目に入ると、つきり、と少なからず胸が痛んだ。
逡巡し、冥加は更に声を潜めた。
誰に聞かれるとも限らない。
「十六夜様が望まれるのであれば、此処より逃れる手引きを致します」
「逃れる?」
考えてもいなかったのか。
驚いたように、彼女は瞬きを繰り返した。
「是非に、御館様の御傍へと」
考える風に俯いて、ゆっくりと口を開く。
「あのヒトもそう、言った?」
冥加は首を振る。
何処か安心したように、そうして、何故か寂しげに微笑んだ。
冥加に、その笑みの意味は図りかねた。
如何して彼女が哀しそうに見えたのか、分からなかった。
「矢っ張り」
取り繕うようにして、口を開く。
「攫えるものならば、攫って行きたいと仰っていました」
彼も、十六夜に逢いたいのだ、と。
自分だけが恋情を募らせるのは不公平だと、
ついさっき迄膨れていた十六夜だったが、
それを聞いて、そのような感情は弾けてしまった。
重ねて、愛おしさが更に募る。
「けれど」
冥加の台詞を遮り、十六夜は言の葉を紡いだ。
「出来ない」
冥加は頷く。
溜息混じりに、俯いた。
「十六夜様はそう、仰るだろう、と」
もう一度、十六夜は矢っ張り、と呟いた。
ゆるゆると散る桜のように、その言葉は儚げに聞える。
「私は、年老いた父を残して、あのヒトの傍へ行くことは出来ない」
元々、愛おしいヒトと大切なヒトを天秤にかけることなど出来ないのだ。
どちらも大切。
どちらも愛おしい。
どちらとも手に入れたいとは想わない。
だからこそ、十六夜は消えたいと願ったのだ。
美しい刻のまま、思い出の中で生き続けたいと。
「このような私でも、深く愛して下さった父を置いて、我が身だけを可愛がることは、出来ない」
冥加は、十六夜の微笑みの意味を織る。
愛おしいからこそ、傍にいてはならない。
悪ろしき姿を晒したくない。
「攫って欲しい。傍に行きたい。けれど、駄目」
彼女は愛おしいと言の葉を紡がれる度に、心を痛めて来たに違いない。
大切だと想うからこそ、涙を流して来たに違いない。
冥加は、そのような生き方を織らなかっただけなのだ。
「冥加。あのヒトに伝えて」
ぽつり、と囁く。
下腹部を撫で、瞳を閉じた。
「御子を授かりました。もう直ぐ、遠く離れた屋敷へと移ります」
俯いて微笑む様は、まるで菩薩のよう。
母とはこのようなものなのか、とある種の感動を覚える。
「決して、逢いに来ようなどと御思いにならないで、と」
来たのなら殺されてしまう。
冥加は、その意を察したのであろう。
常である彼ならば、ヒトの呪祖や剣技に負けるなど在り得ない。
けれど、今の彼は常ではない。
先の竜骨精との闘いで、殆どの力を使い果たし、癒えぬ傷を負っている。
完全に回復するには、まだ時間が必要だ。
深く、頭を垂れる小さな侍従に、十六夜は微笑んだ。
「御言葉、確かに」
微かな隙間を抜けて、冥加の姿は直ぐに見えなくなる。
十六夜は膝を抱えた。
逢いたい。
触れたい。
傍に、居たい。
想いは募るばかり。
「我が、君」
口に乗せた言の葉は、一層少女の胸を締め付けた。
あぁ、如何して、此処はこのように光が届かないのだろう。
彼と出会った季節が、もう一度廻る。
季節は春。
桜舞う、きらきらしい季節。
風は、吹いているのだろうか。
春のまどろみを、懐かしく想う。
次項
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