『今は昔 戦国の世に魔に穢されし巫女ありき |
憶ゆる廻りに眠りし時 |
<前編> 時折、思い出すのは忘れられない記憶。 あの時間に囚われて、動けない自分。 己がそこにあることを、何度も何度も確かめて、深く安堵する。 「あれからもう、2年か」 リビングのフォトスタンドを眺め、永遠は嘆息する。 家族で映った写真。 今でも、両親を一度に失ったあの時を思い出すと、言いようのない嫌悪感に襲われた。 ソファにもたれかかり、ゆっくりと目を閉じる。 いつの間にか、睡魔から夢の中へと誘われていった。 空が曇り始め、今にも泣き出しそうな天気。 永遠は急いで帰路に着いた。 「ただいま」 玄関で靴を脱ぎながら、家の中に呼びかけた。 しかし、いつもなら聞えてくるはずの母の声が聞えない。 「いないのか?」 いないにしては、玄関は開いていたし、2階の窓も開かれていた。 どこか違和感を感じながらも、永遠はリビングへと向かう。 「母さん?」 ガラスのドアを開くと、彼女は言葉を失った。 見開かれた瞳は、明らかに驚愕の色を映している。 「かぁ、さ…?」 そこには、倒れた母の姿。 ゆっくりと歩み寄り、彼女の首筋へと手を触れる。 「……」 動いていない脈。 それは死を指していた。 死後硬直も僅かだが始まっていたため、永遠は母の体をソファへと寝かせた。 ふと、顔を上げれば、留守番電話の設定ボタンが点滅している。 引き寄せられるように近付いて、押してみた。 短い電子音が鳴る。 『こちら、相模警察署です。午後2時ごろ、仁科彰人さんが交通事故のため、亡くなられました』 織らぬ男の声が、用件を簡潔に述べる。 『遺体の確認と、引取りを今日中にお願いいたします。また、お電話さしあげますので』 失礼します。 簡単な挨拶で締めくくられた、受け入れがたい真実。 だが、非道く冷静な自分がいた。 母の死因はコレか、と。 もう一度、設定ボタンを押して、別のボタンを続けざまに押す。 『メッセージを、消去しますか?消去するなら、もう一度…』 定められた電子音声を最後まで聞かずに、消去ボタンを押した。 『消去、しました。録音残量は10分です』 力が抜けるように、永遠はずるずると床に座り込んだ。 俯けば、長い髪が顔を隠す。 軽く首を振ると、立ち上がり、母の傍らに立った。 赤みがかった唇も、緩やかな頬の曲線も、何もかもがいつもどおりで。 ぬくもりも、まだ微かに残っていた。 母の頬に触れた途端、残留思念が流れこんでくる。 「…っっ!」 思わず、永遠は目を閉じた。 頭の中に響く声。 紛れも無く、聞き織った母の声だった。 『永遠』 変わらず自分の名を呼ぶ彼女に、何故か苛立つ。 『私は、あのヒトを失って生きていけるほど、強くは無かった』 残った思念と会話する術など無い。 永遠は黙って聞き入るしかなかった。 『残された、貴方のことを考えなかったわけじゃない』 でも、と一瞬言い惑う。 『どうしても、耐えられなかった』 泣いているのだろうか。 時々、声が掠れている。 『貴方は強いから』 ピク、と少女の肩が揺れる。 『きっと、1人でも生きていける』 開いていた手は、強く握り締められた。 『どうか、泣かないで』 口元は、きつく閉じられている。 『生きて』 そこで、残留思念は尽きた。 母の体には外傷が見当たらない。 恐らく、死に至る呪術でもかけたのだろう。 微かに、その力が感じられる。 永遠のヒトらしからぬ力は、母からの遺伝であった。 「…自分勝手すぎる、よ」 寄せられた眉根は、眉間に皺を刻む。 涙は出ない。 泣きたくてどうしようもない時にさえ、涙は流れなかった。 だから、いつも泣いていたのかもしれない。 ―――逃げなくちゃ それだけが、紅桜の体を動かしていた。 傷だらけになり、足ももつれて、何度も倒れそうになる。 息を切らして、山の木々の間を走っていく。 彼女の衣服は、ぼろぼろになり、所々から傷が見え隠れしている。 その傷からは赤い血が流れ出し、彼女の白い衣服を染めていた。 ―――逃げなくちゃ しかし、どこへ逃げるというのだろう 誰から逃げるというのだ。 それさえも分からないまま、走りつづける。 とにかく、あの場所から離れなければ。 本能が危険だと教えている。 少女の目からは、涙が溢れていた。 血で汚れたその頬を、一筋の涙が流れ落ちる。 それを袖で拭うと、少女―――紅桜は森を抜けた。 殆ど、妖力が残っていない。 このままでは死んでしまう、そう直感した。 しかし、どうやって妖力を補充するというのだ。 そもそも、補充などという芸当が出来るのだろうか。 「!」 かすかに感じた、強い波動。 ―――どうする? 迷っている暇はない。 考えている暇はない。 紅桜は、それを感じた方向へ走り出した。 そうして、彼女が辿り着いたのは白い洋風の家。 テラスから、家の中の様子がわずかに見える。 中から、確かに強い波動が感じられた。 髪の長い少女が、立ったまま俯いている。 ―――泣いている……? 涙が見えたわけではない。 だが、何故だかそう感じた。 彼女は、その少女に近付こうとした。 いつのまにか、雨が降り出している。 衣服が濡れ、それから滴る雨が足元の水溜まりに波紋を広げた。 固まりかけていた血が、雨に濡れて、再び液体に戻っている。 額に張りつく髪を掻き揚げると、手から血の匂いがした。 紅桜は一瞬顔をしかめたが、躊躇する時間もなく、その手をドアに伸ばそうとした。 しかし、それは出来なかった。 雨の所為だけではないだろう。 目の前の風景が揺らいで、力が抜けていった。 バシャリと音がして、彼女は水溜まりに倒れ込む。 もう、一歩も動けない。 呼吸もままならない。 (あたし、死ぬのかなあ) ふと、そんな事を考える。 それなのに、何故か落ち着いていた自分がおかしくて 笑おうとしたけれど、それが許される体力も妖力も、 彼女の中には残ってはいなかった。 家の中にいた少女がこちらに気付き、ドアを開ける。 紅桜の記憶は、そこでブラックアウトした。 庭での水音に、雨が降り出したのだと漸く気付く。 何かが倒れた音がして、永遠は庭先に出た。 「…ヒト?」 見やれば、変わった衣装を纏った少女が倒れている。 衣服はボロボロに千切れ、晒された手足のみならず、至るところに裂傷が見えた。 訝しげに覗きこむと、耳がヒトのものではない。 猫のソレと酷似していた。 「妖し、か?」 永遠は意識を失った少女を抱きかかえ、家の中へと入っていった。 次に紅桜が目を覚ました時、真っ先に見慣れぬ天井に気付いた。 何度か瞬きした後、勢い良く体を起こす。 だが、激痛が走り、そのまま蹲ってしまった。 「痛っ」 見れば、顔にはガーゼ、腕や足には包帯が巻かれている。 大きな傷は消えており、僅かな裂傷が残るのみだ。 もう一度体を起こすと、ベッドが軋む。 「ここ…?」 「気が付いたのか」 いつのまにか、ドアが開かれ、永遠が立っていた。 「大きな傷は治癒した。そっちに力を使いすぎて、軽いものは治癒出来なかったが」 淡々と言いながら、ベッドの傍らの椅子へと腰掛ける。 彼女の服は真っ黒で、髪もまとめられていた。 「3日間眠っていたんだ」 「…貴方が助けてくれたのね」 どこか暗い表情を浮かべながら、紅桜は苦笑した。 「死にたかったか?」 永遠は笑いもせずに、問い掛ける。 「分からない」 目を閉じて、首を振る。 「だけど、ありがとう」 開眼して、永遠と向き合った。 下から声が聞えるということは、この部屋は2階にあるのだろう。 ざわついているのがよく分かる。 「下で、何かやっているの?」 あぁ、と今気付いたように永遠が頷く。 「葬儀をやっているんだ」 「貴方は行かなくていいの?」 「親類がやってくれているからな」 「そう」 ふ、と開かれた窓を見やる。 あの時、降っていた雨も上がり、青い空が広がっていた。 「だから、あの時泣いていたのね」 紅桜の呟きに、永遠は目を見開く。 「…泣いてなど、いない」 息を飲み込み、彼女は口を開いた。 ゆっくりと首を擡げ、紅桜は興味無さ気に瞬きする。 「そう」 貴方がそう思いたいのなら、そうすればいい。 永遠には、何故かそんな風に聞えた。 思いついた意識を押し込める。 「その怪我じゃ、暫く動けないだろう。お前、名前は?」 「名前?」 不思議そうに、復唱する。 だが、その瞳は光を宿していない。 「…貴方は、私を何者かは聞かないのね」 答える代わりに、紅桜は自嘲気味な笑みを浮かべた。 「見慣れているからだろう」 気にする風でもなく、彼女は言い放つ。 面食らった気もするが、ほんの少しだけ気分が軽くなった。 「『紅桜』」 笑みを消して、紅桜は名乗る。 「美しい名だな」 永遠の呟きに、声を上げて笑う。 「どこが?」 前髪を掻き上げ、嘲笑した。 「これは、呪われた名前よ?」 ―――この御子には、その名がふさわしい 遠く響く、年老いた男の声。 ―――呪われし朔の宵に生まれた御子よ 憶えがあるはずもない風景。 産まれたあの瞬間、見えていたのだと認識する。 next |