しろ   たそがれ 
純き黄昏




気付いたのはしばらくして。
彼女が夜に出歩くのは、晴明のところへ通っているためではないかと。
実際では、男が女の所へ通うのが常。
所謂、通い婚という奴だ。
だが、2人は『陰陽師』と『双闘珠』。
常識など通じない。
否、気にしていないのか。
そもそも、何故気付いたかと言うと。
「オイ、黄昏」
「何だ?」
すれ違う瞬間に、彼は彼女を呼び止めた。
「首のとこ、何か赤くなってるぞ?」
虫にでも刺されたか、と思ったが、すぐに考えを改めた。
イキナリ首筋を手で隠し、耳まで真っ赤にする。
愚問だと分かった。

「……悪い」

どちらも気まずそうに顔をそらす。

「いや…」

どこか腹立たしかった。
いつも冷静な彼女を変えることが出来るのは、あの男だけなのだと知ることが。
人間らしい彼女を見れば見るほど、覇我は憤りを覚えた。
新しい表情を見るのは、嫌じゃなかった。
むしろ、嬉しかった。
だが。
そうできるのは自分ではない。
こんなにも傍にいるのに。
こんなにも想っているのに。

…想って…?

風が吹き、はっと顔を上げた。
―――いつからだ?
縁側に腰掛け、彼は夜風を浴びる。
例の如く、黄昏はいない。
この広い屋敷の中、いるのは式だけだ。
人でないのに、すぅすぅと傍で安らかな寝息が聞こえる。
見やれば、隣で寄りかかるようにして、
『紅葉』が寝入っている。
季節は秋。
庭の紅葉の式である。
その名に見合う、紅から緑へと落ちる着物。
気配もなく、す、と背後に人が現れる。
人の形をしたものが。
隣で眠っている男の童とは違い、すらりとした長身の女性。
だが、纏っている着物は同じ色。
「楓」
見上げて、彼女の名を呼ぶ。

「覇我。お前…黄昏様を慕っておるな?」

表情も浮かべず、淡々と言葉だけを唇にのせる。
楓とは、毎年こうなのだ。
何をするにしても、動揺せず、冷静に対処する。
実際は違うのかもしれないが、傍目にはそう見えた。
だから。
嘘をついたところで、すぐにばれる。


「あぁ。らしいな」


その返事に、彼女は眉をひそめた。
「らしい、とは?」
楓から目をそらし、再び庭を見やる。
「分からねぇ」
ますます眉をひそめる。
「分からねぇんだよ」
ガス、と後ろから頭を踏みつけられる形で蹴られる。
「はっきりせぬか。男だろう?」
言っていることはいつもどおりなのだが、
やっていることは、かなり乱暴である。
彼女は冷静なのだが、手も出すし、足も出す。
「お前…来年は足癖悪いの治しとけ」
押し返しながら、覇我は憮然と言い返す。
「私のことなどどうでもよい。お前のことを聞いておるのだ」
足を離し、紅葉と反対側に腰を下ろす。
「んなこと言ったって」
自分でも分からないのだ。
いつから、特別な感情を持ったのか。
最初出会ったとき、黄昏は子どもだった。
そんな彼女に恋愛感情を持つわけがない。
ましてや、そんな趣味はない。
覇我は歳をとらない。
だが、黄昏は段々と歳を重ねていく。
そばで成長していく彼女が、いつしか愛おしくなって。
いつだったか、妖物退治のときに。
黄昏の力ではない何かが、彼女を護った。
彼女が無事だったのに、それでも何か、不愉快だった。
彼女の力ではない何か。
それは間違いなく、彼女の想う陰陽師の力で。
「血迷うなよ?」
楓は嘆息して、目を閉じる。
「黄昏様は我らが主。決して、我らが穢してはならぬ」
覇我が、男だということを前提として、楓はそう言った。
「分かってるよ。」
「ならば誓え。決して、黄昏様にその想いを悟られぬと」
懐に忍ばせていた小刀を、楓は自分の手首に押し付ける。
人ではない証拠とでも言うように、彼女の手首からは樹液が流れ落ちた。
その手首を彼の前に突き出す。
覇我は、彼女の手から小刀を取り、同じように自分の手首にそれを押し付ける。
紅い血が流れ落ちた。
すでに、人としての命など忘れたと言うのに。
楓の傷に、自分の傷を合わせる。
つ、とどちらの腕からも、『血』が流れ落ちた。


「約束する」


式同士の誓いの証。
お互いの血を合わせる。
式には血などありえないのだが、双闘珠の創り出す式には『血』がある。
それは必ずしも、人間と同じものではない。
木々から創り出したものならば、楓のように樹液が。
人から創り出したものならば、覇我のように血液が。
もっとも、人から創り出した式は覇我だけである。



漆器の器が音を立て、食事が運ばれる。
膳を持って廊下を歩いている女の式。
確かに歩いているのに、その仕草は浮かんでいるようにも見えた。
すすすと足を動かさずに移動しているようなのだ。
聞こえるのは膳の中の微かな音だけ。
足音も、襖を開く音も何もしない。
しかし、黄昏は驚くこともしない。
十二単が静かに動く。
「食事か」
「はい」
女房の格好をした女は頷いた。
音もなく、彼女の前に膳を置く。
黙ったまま、黄昏は食事を見やる。
小さく首を振ると、彼女は顔を上げた。
「下げてくれ、水蓮」
「黄昏様?」
質素な食事ではあるが、美味しそうに作ってある。
双闘珠は、仏に仕える者達と同じく、生臭物は食さない。
この屋敷には式しかいないため、食事を作るのもまた、式である。
怪訝そうに見上げる水蓮。
「朝餉もお召し上がりではないでしょう?」
今に始まったことではなかった。
最近、黄昏が食事を取らない。
取ったとしても、小鳥の餌ほどだ。
「そんなことでは、お体が…」
ガタリ、と音がして2人は廊下を見やった。
「黄昏、いい加減に周りの奴らを心配させんのはやめろ」
覇我が、襖に寄りかかり、覗き込んだ。
「どっか悪いんだったら、医者にきてもら…」
そこまで言って、覇我は口を閉じる。
閉じざるを得なかった。
イキナリ俯いたと思った黄昏が、覇我と水連の間を掻き分けて、
庭に裸足のまま駆け下りたのだ。
「黄昏様!?」
追いかけるようにして、水蓮が立ち上がる。
覇我も、彼女を裸足のまま追いかけた。
身体を屈め、その場に座り込む。

「黄昏!?オイ、どうしたってんだよ!」

何度か、声らしきものを吐き出した後に聞こえた、


嘔吐の声。


「!?」
どうしてよいか分からず、水蓮はうろたえる。
「た…ただいま、お薬をお持ちいたします!!」
そのまま、廊下を走っていってしまった。
庭に下りたまま、彼女は肩で息をする。
再び襲う嘔吐感。
「…黄昏、お前まさか」
彼女の名を呼ぶが、苦しいのか、返事はない。
ふと、一つの考えが脳裏をよぎる。
身体を支えながら、覇我はどうすることもできなかった。
「平気、だ…っ」
息が荒いままで、黄昏はやっとのことで返事をする。
「どこが平気だって言うんだよ?!」
耐え切れず、耳元で怒鳴る。
「私が平気だと…っっ!!」
直後に再び身を屈め、咳き込んだ。
そこにあったのは。








見紛うことなき、深紅の華。






ぼたぼたと、彼女の指の間から流れ落ちる。
黄昏は、目を見開いたまま、自分の手を呆然と見やる。
「…な…?」
これは何だ。
私の手か?
私の指か?

私の…血…なのか?

意識が遠のき、覇我へと寄りかかる。
覇我は、倒れこむ彼女を支え、抱え上げた。
「何だって言うんだよっ!!」
歯痒そうに呟くと、彼は身軽に縁側へと飛び乗った。




誰かいるのか…?

真っ白な世界の中、自分ひとりが存在しているようで。

誰もいないのか…?

いつから誰かの存在を求めるようになったのだろう。

『……っ!』

怖い。

いつからそう感じるようになったのか。

頭を抱えて、うずくまる。
笑い声と共に、差し出される手。
知らず知らずのうちに、掴んだその手。
知らず知らずのうちの安堵感。

『   』

そう呼んでくれたのは、誰だった…?
忘れ去った、あの、忌まわしい過去の名を。





心配そうな、式たちの顔。
黄昏が目を開くと、一番に目に入ったのはそれだった。
いつのまにか布団に寝かされている。
「黄昏さまあっっ!!」
泣きついてくる、数匹の童姿の式たち。
よっぽど心配だったのだろう。
ぽろぽろと涙をこぼしながら、小さな手で必死にしがみついてくる。
「心配かけたな」
言ったと同時に聞こえる声。
「全くだ」
こつん、と額を小突かれる。
覇我は、どこか安堵したような面持ちで彼女を覗き込んだ。
「…皆、覇我と二人にしてくれないか?」
「黄昏様?」
今度は水蓮が声を出す。
だが、彼女の目を見て、無言で立ち上がった。
童子達にも出るように促す。

「黄昏?」

訳がわからず、彼女を見やる。
起き上がり、羽織を肩からかけた。
「気付いたのだろう?」
躊躇いがちに吐き出される言葉は、どこか弱々しい。
「どれをだ」
心当たりが多すぎる。

「陰陽師に惚れていることか?」

淡々と紡ぎだされる言葉。

「腹に、子どもを宿していることか?」

腹立たしくなってくる。

「病を隠していたことか?」

何も出来ない自分が。

「言えよ。どれをだ?」

受け流すでもなく、否定するでもなく、彼女は目を閉じて答えた。

「全部を、だ」

かっとなり、思わず怒鳴りそうになる。
だが、彼女の穏やかさを目の当たりにし、思いとどまった。
凛とした空気。
彼女の強さを讃えるような風が、通り抜けた。
「昔」
「?」


「私は、親兄弟をこの手で……殺めた」


自分の手を見つめる。

いつだったか。
この手を染めた深紅は、何よりも温かくて。

「力が暴走して」

『にげてぇっっ!!』

泣き叫ぶ幼子の声。
風の刃は、全てを切り裂き。

『いやああああぁぁぁぁっっっ!!!』

全てを深紅に染め上げた。
父も。
母も。
兄も。
姉も。
弟も。
妹も。
乳母も。
女房も。
舎人も。


何もかも。


血の海に一人佇む少女。
その双眸は涙で濡れていた。

『どう…し…て…?』



「屋敷の者を皆殺しにした」
目を見開いたまま、覇我は黄昏から目をそらせない。
「この手で」
ぎゅ、と拳を握る。
力なく微笑み、彼女は覇我に視線を移した。
「幼い頃の名を捨て、今の名にしたのも」
何もかもを変えたのも。
「あの事実から逃げたかった所為かもしれない」
皆を殺した時、親族の者が表向きの理由を作った。
夜盗が押し入った、と。
黄昏は幼かったため、隠れていて見つからなかった。
血のつながりがあるのなら、誰かが黄昏を引き取っても良さそうなものだが、
彼らは黄昏の並外れた力を恐れた。
自分達も、彼女の家族のようになってしまうのではないかと。
金銭面の援助だけで、彼女の屋敷には近寄ろうともしなかった。
だが、それは彼女にも好都合だった。
目に見えて分かる、相手が感じている恐怖。
幼き双闘珠に向けられる、畏怖の視線。
人と関わることは最小限にしたかった。
関わらずに済むのなら、それに越したことはない。
誰も屋敷に仕えさせず、式だけで事を済ませた。
感情を交えずに話す彼女に、覇我はやるせなさを覚える。
「何故」
「何?」
人と関わりを持ちたくないのなら。

「何故、俺を拾った?」

何故、自分に声をかけた?

何故、あの時出会ってしまったのだ。

空を見つめる瞳で、彼女は口を開く。
「お前が」
降りしきる雨の中。
その血の色はあまりに鮮やかで、自分の罪を思い出した。
両手が一瞬紅に染まったように見え、思わず傘から手を離す。
自嘲気味な笑みを浮かべ、目の前にいる者へと話し掛けた。
自分が、彼を傷つけたかのような錯覚をした。
どこか、他人を突き放すような瞳。
野生の狼を見ているようで。

「私であるような…私を…見ているような気がしたから」

その通り、彼は彼女の分身となった。
力の欠片となった。
他の誰かではない。
一番近くで、一番遠い。
覇我は、決して陰陽博士の位置には成り得ない。
彼女自身になるのだから。
それでも、彼女とは違う存在。

「ッ!!」

どうして、俺じゃ駄目なんだ。


口をつきそうになった。
同じ存在なのに。
一番傍にいるのに。
出かかった言葉を寸でのところで飲み込む。
楓との約束を思い出した。
もし、それを置いたとしても、彼女がどう答えるか分かったからだ。

『ハルアキだからだ』

迷うことなく、そう答えるだろう。
彼でなければ駄目なのだ。
彼だからこそ、好きになったのだ。
見ていれば、よく分かる。

「覇我?」

呼びかけられて、顔を上げる。
「どうした?」
問われた瞬間、彼女を抱きしめる。
意図がつかめず、怪訝そうな顔をして彼を見上げた。
「覇我?」
知らず知らずのうちに、腕に力が入る。
「俺が、護る」
掠れる様に小さな声。
抵抗するでもなく、彼女は幼子をあやすように、彼の背中を二、三度叩く。
「当たり前だと言っているだろう」
優しい声に、彼は思わず身体を離した。
壊れてしまいそうな気がした。
細い身体は、ガラス細工のように綺麗で。
「腹の子どもはどうするつもりだ?」
わざと話題を変え、彼は彼女から視線をそらす。
「産む」
「それなら、陰陽博士に…」
ハルアキの存在を口に出され、彼女は表情を強張らせる。
「言うな」
それを見逃す覇我ではない。
眉をひそめる。
「黄昏?」
「ハルアキには、言うな」
父親の存在が必要なのは分かっている。
母親は双闘珠。
父親は陰陽師。
それが世間にも、常識にも受け入れられるはずがない。
誰にも知られてはならない。

「決して、口外するな」

父親の存在を。
そ、と自分の下腹部へと手を当てる。
「お前が、育ててくれ」
髪が肩から滑り落ち、彼女の表情は隠れてしまった。
「お前は?」
「私の生命は永くは持たない」
分かっているだろう、と小さく呟く。
「……」
分かっていたこととはいえ、言葉として表現されると、
否定したくなる感は否めない。
黄昏は人間、覇我は式。
限りある生命、永遠に続く生命。

分かっていたはずなのに、そのときだけは考えたくなかった。











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