始まりはきっと、何でもないこと。
他愛無い挨拶とか、世間話とか。
2言3言交わしただけで、特別なことなど何処にも無くて。


「今日和、えっと…ホーエンハイムさん、でしたよね?」


その少女は、記憶を辿って彼の名前を言い当てた。
驚いたように
――端から見れば全くそうは見えなかったが――彼は、
え、と漏らした。
30歳代半ばから40歳代といったところか。
男は呆けて立ち尽くす。
「あら、違ったかしら。確か前にピナコさんと一緒にいらっしゃったかと」
少女は間違えたと思ったのだろう。
微かに頬を染めて、ごめんなさいと笑った。
彼らの前を、羊の群れが横切っていく。
此処、リゼンブールではさして珍しくも無い風景だ。
同じ時に立ち往生して、何気なく隣を見てみたら知った顔だった気がして話しかけた。
知らない者であったとしても、のんびりとした穏やかな気候に似つかわしく、
昔からの知り合いかのように言の葉を交わす。
「あぁいや。合ってますよ、お嬢さん」
やっと返事をしたかと思えば、苦笑して頭を掻いた。
大きな図体に似合わぬ少年のような仕草に、少女は思わず噴出した。
羊の群れも最後尾が近付いているらしい。
羊飼いの少年と共に飼い犬の姿が見える。
少女はそちらに向かって小さく手を振った。
群れが通り過ぎると、少女は持っていたミルク缶を抱え直す。
「持ちますよ」
「いえ、これくらい平気です」
「ピナコと居る私を織っているのなら、近所なんでしょう?アイツの家に行くついでですよ」
差し出された手は、父親のそれとは確かに違っていて少女はまじまじと見つめてしまった。
農作業をする手では無いが、中指には節くれたマメが出来ていて、
お世辞にも綺麗とは言えない。
スーツを身に着けていると言うことは、もしかしたら役人か、学者なのかもしれない。
少女は思いを廻らす。
そうして、彼の手と顔を交互に見やり、困ったように微笑んだ。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
軽々と抱えられてしまう缶に、少女はまぁ、と呟く。
「どうしました?」
「そのミルク、私のときはとても重くなるのに。きっと、気まぐれなのね」
思ってもみなかったのだろう。
ホーエンハイムはまたもや呆けた後に笑い出した。
驚いて、少女はぱちくりと目を瞬かせる。
「どうかしました?」
「いや、突飛なことを言うお嬢さんだと思って」
「そうかしら」
まるでそうは思わないと言うように、
彼女は足元に咲く野花を横目にしながら不思議そうに首を傾げた。
ぽむ、と手を打ち、少女は隣を歩くホーエンハイムを見上げた。
頭ひとつと半分くらい違う彼の表情は、陽射しの加減も手伝ってハッキリとは窺えない。
「私、トリシャです。トリシャ・エルリック」
ふわりと微笑むトリシャに、自然ホーエンハイムにも笑みが浮かぶ。
「ヴァン・ホーエンハイム。名乗る必要もありませんでしたかね?」
「あら、そんなことはありませんよ。だって、私の織っている貴方は、ピナコさんのお友達のホーエンハイムさんですもの。でもお互いに名乗れば、私のお友達のホーエンハイムさんになるんです」
「なるほど」
教師のように説く彼女と、仰々しく頷く彼は、
同じ小道を歩きながら同じ笑顔で笑い合った。




小さな丘の上に家が見える。
もう見慣れてしまったそれは、トリシャの幼馴染のものだ。
「あの、ホーエンハイムさん」
前を歩くホーエンハイムに慌てて少女は呼びかけた。
顔だけ此方へ向けて肩越しに振り返る。
「何ですか?」
「ピナコさんの家、ココですよ」
「あぁ、本当だ」
丘の上の家を見上げ、さも今気付いたかのように驚いた顔を見せた。
トリシャは手を差し出し、ミルク缶を受けとる。
「私の家、すぐそこだから」
ありがとうございます、と礼を言い、少女は柔らかく微笑んだ。
その姿に手を振りながら、彼は鞄を持ち直す。
ふぅ、とひとつ溜息を吐いて小高い丘を登り始めた。
広がる芝生も、細い小道も、彼の織る家に繋がる頼りない電線も、
何ひとつ変わってはいない。
入り口にある『技師装具のロックベル』と書かれた看板は、
以前よりも草臥れてしまったようだ。
こんこん。
軽快なノックが響くと、ドアが開かれた。
「おや、まぁ。あんたは本当にいつも突然だね」
ウェーブのかかった髪を簡単に纏め、
ホーエンハイムよりも僅かにだが年若に見える女性が顔を出す。
その呆れた口調とは裏腹に、愉しげな様子で彼を仰いだ。
「手紙を」
「うん?」
「書こうと思ったんだが、書いている間に着いてしまった」
「…そうかい」
疲れたようにがっくりと項垂れたピナコの脇を通り過ぎ、
ホーエンハイムは診察所内を見回した。
「ロックベルは居ないのか?良い酒が手に入ったんだ。今夜にでも3人で呑もう」
「死んだよ」
ドアを閉めながら、ピナコは振り返る。
眼鏡をかけなおす仕草は、何かを誤魔化すようにも見えた。
「死んだ」
念を押すように、ピナコはもう一度同じ言葉を口にする。
ひとつ大きく息を吸い込む間、ホーエンハイムは戸惑いをその瞳に浮かべた。
そうか、と小さく呟く。
「流行り病でね。医者の不養生とは言ったものだよ全く」
近くにあった椅子に掛け、ホーエンハイムにも座るよう促した。
彼が掛ければ、ぎしりと椅子が鳴く。
静かな部屋にそれは異様に響いた。
「それだけ患者の近くに居たんだろう」
微かにピナコの目が見開かれる。
何故この男は、言いかけて、口を閉じた。
泣き笑いのような顔になってしまい、ピナコはパン、と自分の両頬を叩いた。
「あぁ、そうだ。あのヒトは私の誇りさ」
今度こそしっかりと笑い、ピナコはホーエンハイムを見やった。
彼は目を細め、すい、と顔を逸らす。
「…ヒトはあっけなく死んでしまうんだな」
ピナコは机にあったキセルに火を灯すと、肺の奥まで紫煙を吸い込む。
ふぅっとそれを吐き出すと、仕方がないさ、と紡ぐ。
「だからこそヒトは懸命に生きる。例え、誰が愚かに思ってもね」
こん、と作業台にある機械鎧を小突く。
鋼の義手やはたまた義足は、冷たく重く存在を主張していた。
「あんたもだよ、ホーエンハイム」
「俺が何だ?」
「あんたにもいつか必ず、終わりは来るんだよ」
茶を淹れようか、とピナコは席を立ち、奥へと引っ込んでいく。
その背中を見送り、ホーエンハイムは自嘲気味に笑った。
「だと、良いがな」
来るのだろうか、とふと思う。


―――この罪深い化け物に終わりが来るのならそれは


それは、その後に続く言の葉を彼は織らない。
それは、何だと言うのだろう。
考えてみたが分からない。
しかし、どうでも良いことだ。
終わりが来ようと来ずとも、何ら変わりはない。
彼は彼の成すべきことを成していくだけなのだから。
あたたかな茶の香りが診察所まで漂ってくる。
ホーエンハイムはぼんやりと家の奥を見つめた。



家の傍まで行くと、誰かが玄関に座り込んでいた。
トリシャはあら、と早足で駆け寄った。
「ユーリ」
呼びかけると、少年は安堵した表情を見せた。
「トリシャ、何処に行ってたんだ」
立ち上がり、トリシャの前に立つ少年は訊ねる。
持っていた缶を示し、にこりと微笑う。
「何処、ってミルクを頂いてきたのよ」
「ひとりで?」
彼はひょい、とそれを手に取るともう一方の手も差し出す。
トリシャはポケットから鍵を取り出し、ユーリに渡した。
がちゃり、と金属のぶつかる。
「えぇと、そうだけれど、そうでは無いわ」
彼の後ろを歩き、人差指を頤に当てる。
頭痛がするのか、ユーリは額を押さえて、はぁっと溜息を吐いた。
「途中で誰かに会ったってこと?」
「そうなの、ユーリなら憶えているかしら。ほら、ホーエンハイムさん」
途端、ユーリの表情が凍り付く。
けれど、トリシャはそれに気付かない。
愉しそうに微笑み、あのね、と言の葉を続けようとした。
それを阻んだ少年の声。
「あいつには近付くな」
「え?」
キッチンのやかんに水を入れ、コンロにかける。
やかんの下から、ガスの蒼い炎がふわりと広がった。
食器棚へと向かうトリシャの背中に、ユーリは声を荒げる。
「ホーエンハイムだよ!」
来客用のカップと自分のカップを取り出し、テーブルに置いた。
やっと、少年へと振り返る。
「あら、どうして?ピナコさんの古い御友人なのでしょう?」
椅子に掛けた少年を見届け、自分も向かい側の椅子へと腰を下ろす。
湯が沸くまでどれくらいだろう。
「そうだ、古いんだよ」
彼の言っている意図が読めない。
トリシャは首を傾げた。
「だったら」
「母さんのアルバムを見たことがある」
唐突な話題に、トリシャは聞き返すのも忘れて彼の言の葉に耳を傾けた。
彼の辛辣な表情などあまり見たことが無い。
「昔は何とも思わなかった、けど」
シュン、とやかんから白い湯気が飛び出した。
蓋がカタカタと鳴り出し、湯が沸いたのだと教えてくれる。
トリシャは席を立ち、コンロの火を緩めた。
「変わってないんだよ」
湧いたことを確かめてガスを止める。
棚から茶葉を取り出し、ポットへと入れた。
上から湯を注げば、芳しい紅茶の香りがキッチンに広がった。
「ピナコさんはいつまでもお若いわね」
そうじゃなくて、とユーリは視線を険しくした。
何処か、怯えているようにも見える。



「あいつ、歳を取って無いんだよ」



ポットに蓋をして、十分に蒸らす。
聞いているのか、いないのか、トリシャはそう、と返す。
「考えられるか?母さんの若い頃、しかもまだ20代前半くらいだぞ。そこに写っていたあいつは、俺が最後に見た3年前の姿と全く変わらなかったんだ」
茶漉しをカップに被せて、茶を注ぐ。
ブランデーにも似た飴色に、トリシャは満足そうに微笑んだ。
「あら、もしかしたらうんと年上に見えるだけかもしれないわ」
「トリシャ」
「よく織りもしないのに、ヒトを悪く言うのは良く無いと思うの」
それに、とトリシャは微笑む。
差し出された茶を受け取り、ユーリは渋い顔を見せた。
心配してくれているのは分かる。
けれど、だからと言って、他人を卑下して良いものではない。
彼のそれは牽制や忠告の類に似ていたけれど、
トリシャには彼がそのようなものには思えなかった。
「ピナコさんのお友達に、悪いヒトは居ないわ」
きっぱりと言い切られ、ユーリはそれ以上何も言えない。
分かったよ、と諦めた調子で紅茶を口に含んだ。
ミルクを冷蔵庫に入れながら、トリシャは思い出したように口を開く。
「ところで、何か用だったのではないの?」
言われて思い出したのか、ユーリはそうだ、と身を乗り出した。
「もうすぐ、さ…あの」
「サラの誕生日ねぇ」
サラ、と名前が出た途端に顔を紅くするユーリに、トリシャはくすくすと漏らす。
ぱたん、冷蔵庫の扉を閉じて、少女は腰に手を当てた。
「プレゼントくらい、自分で考えなさいな」
彼女なんでしょ、と重ねて言えば、益々顔を紅くして口篭る。
まるで手のかかる弟だ。
ひとつ息を吐いて、トリシャは外を見やる。
陽が傾いてきた。
「ほら、私は夕飯の用意をしなければいけないの。そんな用事ならさっさと帰って頂戴」
茶を飲み終えた彼のカップを奪い取り、追いやるように席を立たせる。
「トリシャぁ」
肩越しに振り返るユーリの声は懇願の色を宿していたが、そんなことは気にしない。
いくら幼馴染であろうとも、色恋ごとの処理くらい自分でどうにかして欲しいものだ。
玄関の扉を開くと、彼の背中を押した。
「情けない声出さない。男なら中央で指輪のひとつやふたつ買ってきて、プロポーズでもしてしまいなさいな」
人差指を鼻の頭に突き付け、トリシャはぴしゃりと言い放つ。
「トリシャ!」
真っ赤な顔のまま、ユーリは叫ぶ。
お構いナシに少女はじゃあね、と笑って、あっさりと扉を閉じてしまう。
ユーリが諦めて帰る気配を感じ、窓から彼の背中へ視線を投げた。
織らず、溜息が漏れた。
サラは良い友達で、可愛くてしっかりもので大好きだった。
ユーリも時には頼りになる幼馴染で大好きだった。
そっと仕舞い込んだ想いは、外に出されること無くひっそりと此処にある。
よくある、近しい異性に抱く幼い恋心。
恋というものへの憧れであっただけだとしても確かに、その想いはそこにあった。
忘れてしまおう。
忘れなければ。
不思議と、2人の倖せな姿を妬ましいという気持ちは無い。
そう思うとやはり、
あれは年頃の少女が抱くただの憧れだったのだと少しばかり落胆するのだった。
「いけない、父さんの食事」
トリシャは顔を上げて、キッチンへと向かった。




ジリリリリ、列車の到着ベルが鳴り響く。
速度を緩めた汽車はホームへぴったりと収まった。
降りる人間も少ない、このリゼンブールでは目当ての者を見つけるのも容易い。
とは言え、リゼンブールでは羊毛業が盛んで、軍や中央の大手有名店にも卸しがあり、
あと数年も経てば賑やかな町になるだろう。
「トリシャ!」
辺りをきょろきょろと見回しているトリシャを見つけると、
少女は駆け寄って抱きついた。
少女の金糸の髪は上等の絹のようで、
蒼い瞳はリゼンブールの空を切り取って収めてしまったかのようだった。
勢い良く抱きついていた友人を抱き返し、トリシャはくすくすと笑った。
「相変わらずね、サラ。元気だった?中央はそろそろ涼しくなる頃かしら」
「そうなの!でも、こちらの涼しさには負けるわね。もっと服を持ってきた方が良かった」
「あら、それはこちらで可愛らしい服を見立てて貰えっていう神の思し召しに違いないわ」
「トリシャのそういう所が大好きよ」
サラはトリシャの頬に音を立ててキスを贈る。
存分に笑い合った後、離れた場所に立っているユーリに気付く。
「久しぶりね、ユーリ」
にこりと愛くるしい顔で微笑み、彼とも同様の抱擁を交わす。
触れ合わせるだけのキスをして、2人はもう一度抱き合った。
「手紙は送ってるし、電話もしてる。久しぶりって感じじゃないけどね」
「可愛い彼女と逢えて嬉しいって正直におっしゃいな」
彼の頬をつねり上げ、サラはほほほ、と声だけで笑う。
トリシャがサラと出会ったのはほんの数年前。
ユーリが中央の医学校の課程を修了し、故郷へと戻ってきた時だ。
それまで、ユーリがよくもまぁ根も上げずに、
1人暮らしを何年も続けたものだとピナコと話していたのだが、
サラを見た瞬間、その理由を悟った。
本当に勉強をしに行っていたのか、などとピナコから冷やかされながらも、
ユーリはサラと言う恋人を伴って戻ってきたのだ。
初めて会った時の彼女は見たことも無い透き通るはちみつ色の髪を可愛らしく結い上げて、
ふわりと靡くスカートの端を指先で摘んで汽車から降りてきた。
まるで、昔絵本で読んだお姫様か妖精がそのまま出てきたような錯覚を憶えた。
初めて訪れる地、しかも恋人の故郷。
緊張しているのか、微かにピンクに染まった頬があどけなかった。
「ねぇ、トリシャ。…おーい?」
目の前で手をひらひらと振られ、トリシャは我に返る。
「え、あぁ、ごめんなさい。ぼんやりしていたの」
トリシャは苦笑して、サラへ謝る。
サラの印象は最初のそれとは打って変わっていた。
緊張が解け、時も経てば、
彼女は非常に勝気で元気の良い女の子なのだと理解するに至る。
こんな少女が本当に医者を目指しているのだろうか、
などという懸念はあっという間に吹き飛んだ。
「トリシャ、顔色が余り良く無いわね。ちゃんと食べてる?ヒトのことばっかり感けてちゃ駄目よ」
額に触れ、トリシャの両頬を両手で包む。
空色の瞳にじっと見つめられると、嘘を吐けなくなってしまう。
大丈夫よ、とトリシャは彼女の手から逃れ、1歩後ろに下がった。
ロックベル家に続く道は、まだもう少しある。
身体がだるいなどと、このような日に悟られたくはない。
陽に当たり過ぎたろうか。
夕べ、夜更かしした所為だろうか。
「本当に?トリシャ、貴女は身体がそんなに丈夫では無いのだから。貴女が倒れでもしたら、私は哀しいわ」
「心配性ね、サラは」
「貴女はヒト以上に頑張り屋さんだからそれくらいで丁度良いのよ。ねぇ、ユーリ?」
「全くだよ」
2人に頷かれてしまっては、立つ瀬が無い。
トリシャはごめんなさい、と苦笑した。
けれど、思いとは裏腹に軽い眩暈が襲ってくる。
不味い、と思った瞬間、道端から声がかかった。
「ユーリじゃないか」
低い声。
だが、ユーリは返事をしないどころか、視線すら合わせようとしない。
サラは気不味そうに、彼らの間に視線を彷徨わせる。
「今日和、ホーエンハイムさん」
代わりに返事をしたのはトリシャだった。
少女を見上げ、あぁ、と彼は顔を綻ばせた。
「今日和、トリシャ。丁度良かった、そこの店でマフィンを頂いたんだが、私はどうも甘いものは苦手でね。食べて行かないかい?」
懐を探り、ラッピングされた2つのマフィンを差し出した。
木陰の自分の隣を示し、座るように促す。
「申し訳ありませんが…」
「まぁ、嬉しい」
ユーリを遮り、トリシャは無理矢理笑みを作った。
「私、マフィン大好きなんです。良いんですか?」
「トリシャ」
止めようとするユーリに背を向け、懸命に足を踏み留める。
そろそろ立ち続けるのは限界だ。
「そういう訳だから、先に行っておいてくれるかしら。サラ、また後でね」
「え、えぇ」
早口で出来るだけ自然に振舞い、トリシャは彼らの後姿を見送った。
木の根元に腰を下ろすと、立てた膝に顔を埋める。
「…ありがとう、ございます」
青白い顔で、トリシャは力無く微笑む。
「大丈夫かい?」
脇に転がしていた水筒から、備え付けのカップに紅茶を注ぐ。
差し出された紅茶のぬくもりを手のひらに覚えながら、トリシャは頷いた。
「少し休めば」
涼しい風が通り過ぎる。
何を話すでもなく、気を遣うでもなく、2人は暫くの間、木陰で時が過ぎ行くのを見ていた。




一転して、視界に天井が広がる。
ランプに灯りを灯しただけの部屋は薄暗く、カーテンを開け放した窓から、
月明りが煌々と部屋の中を浮かび上がらせた。
その様は幻想的で、トリシャはひとりで過ごすこの時間が好きだった。
ベッドの上で寝返りを打つと、ベッド脇に置いたマフィンの包みが目に入った。
透明のセロファンを淡いグリーンのリボンでラッピングした2つのマフィンが可愛らしい。
ラズベリー地、ショコラ地がプレーン地にそれぞれ練り込まれている。
思わず、笑みが零れる。

『私、そろそろ行きますね』
『コレ、持って行かないのかい?』
『え?』
『大好きだって言っていたろう』
『…ぶっ』
『私は、可笑しなことを言ったかな』
『いいえ、ごめんなさい。ありがとうございます、ホーエンハイムさん』

口実に使った台詞を、本気で取られているとは思ってもみなかった。
確かに、甘いものは嫌いではない。
嘘ではないのだから、嬉しかった。
嬉しいと言ったことも、嘘では無かった。
「おもしろいヒトだわ」
無造作に膝元へ置いていたショールを引き寄せ、夜空を見上げた。
軽く押しやり、窓を開く。
煌く星々の下、まだ灯りの点いている家々を遠目に映した。
ピナコの家が目に留まる。
そういえば、彼はあそこに泊まっているのだったなとぼんやりと思う。
今頃、何をしているのだろう。
ピナコと晩酌を共にしているのだろうか。
分厚い本を持っていたから、読書でもしているだろうか。
けれど案外、何もしていないのかもしれない。
考え出せばキリが無いのに、トリシャは愉しい。
思いがけない言の葉。
突飛な行動。
決して不快ではないハプニング。
「不思議なヒト、かも」
うん、とひとつ頷き、くすりと笑った。
肩越しに振り返り、ちょこんと並んだマフィンを見やる。
明日のお茶の時間まで、香りは待ってくれるだろうか。
とっておきの紅茶をお気に入りのティーカップに注いで、
読みかけていた小説を読んでしまおう。
トリシャはそう決めると、編んでいた髪を解いてベッドの中へ潜り込んだ。




「今日和」
声をかけられ、ホーエンハイムは顔を上げた。
今日は天気が良い。
空は高く、風は温かく心地良い。
庭先でぼんやり日向ぼっこをしているようにしか見えない彼の前に、
トリシャは座り込んだ。
「今日和、トリシャ。今日は顔色が良いね。ユーリ達だったら出かけたよ」
優しく頭を撫でられてしまい、何だか子ども扱いされているようだ。
もう、とトリシャは頬を染めた。
「小さな子どもじゃ無いんですからっ!それと、ユーリ達とはさっきすれ違いました。私は貴方に会いに来たんです」
これでももうすぐ20歳だ。
一般的に大人と呼ばれる歳になる。
尤も、大人と子どもの境界線はとても曖昧で、
ハッキリと言い切ることは出来ないように思えた。
ずい、とトリシャは持ってきたバスケットを彼の前に差し出す。
ナプキンのかけられたそれを、ホーエンハイムは呆けて眺めた。
「甘いもの、苦手だって仰っていたから。パンを焼いてきたんです。それとマリネも」
「私に?」
「昨日のマフィンのお礼です」
意外そうに呟く彼に、こくりと頷く。
香ばしそうなバケットを、切り分けてガーリックバターで焼いてみるのも良い。
カリカリのラスクや、
サラダを挟んでサンドイッチにも出来る。
ピクルスも見えるサーモンと玉葱のマリネはワインにも合うだろう。
酒を嗜む彼にとっては、菓子よりも嬉しいものだ。
「良いのかい?」
もう一度訊ねると、勿論と言う声が返ってきた。
「ピナコさんと召し上がって下さいな」
「では、ありがたく頂くよ」
ホーエンハイムは両手でバスケットを受け取り、穏やかに微笑んだ。
いつも穏やかな顔はしているが、笑顔は初めて見たような気さえした。
果たしてそれは正しかったのかもしれない。
トリシャだけに向けられた笑みはきっと、初めてだ。
「いつまでココに?」
隣に腰を下ろし、彼と同じように空を見上げる。
蒼いキャンバスに白い綿雲が漂う、のんびりとした時間。
いつもと変わらない、愛しい時間。
「そろそろ発とうとは思ってる」
ホーエンハイムはマリネの瓶を開けて、中身を摘む。
甘酸っぱい風味がふわりと口の中に広がった。
ピナコの腕に負けず劣らず、味は上等なものだ。
上手に漬けてあるね、と褒めれば、くすぐったそうにトリシャは礼を口にする。
そうして、つまらなさそうに溜息を吐いた。
「夏まで居らしたら良いのに」
それには返事をせずに、ホーエンハイムは苦笑する。
「夏に何かあるのかい?」
「月が、綺麗なんです。星も」
トリシャは両手を広げて、目を耀かせた。
立ち上がってくるりと回る。
スカートがふわりと靡いた。
「目に映る限り地上が真白な灯りに染まって、とても幻想的なの」
橙色の灯りも、星の煌きも、全てが絵本の中の世界のようで。
レースのカーテンに覆われたような情景は、
そのままリボンで結んでまるごと包むことが出来そうだ。
陽の光も勿論好きではある。
けれど、昼間とは違う灯りに心がざわめくような、
躍るような、不可思議な感覚に襲われる。
わくわくする、と言うのが一番しっくり来る。
「でも、秋の紅葉も良いわ。冬の雪景色、春の花々」
「全部じゃないか」
ホーエンハイムは笑って、彼女の背中を視線で追う。
緩く波を打つ柔らかな栗色の髪が風に揺れた。
花が咲くようにトリシャは嬉しそうに笑った。
「えぇそう、全部!どの季節でも、リゼンブールは素敵なの」
あぜ道を横切る羊の群れ。
たわわに実ったオレンジ畑。
汽車の吐く煙が帯を描いて伸びていく。
「街は嫌いかい?」
ホーエンハイムは訊ねる。
若い娘なら憧れるものもあるだろう。
シフォンのドレス。
レースのリボン。
シルバーリングに、小さな透き通った石のピアス。
「いいえ、嫌いではないんです。でも、煌びやか過ぎて、私は気後れしてしまう」
困ったように頬に手を当てる。
顔立ちが整っている彼女が着飾れば、それは美しくなるだろうに。
ホーエンハイムは思ったが、どう言えば良いのか分からない。
そもそも、容姿を褒めたところでこの少女が喜ぶだろうか。
「お化粧をして、髪を巻いて、アクセサリーやドレスで着飾って」
指先に髪を絡めて、くすりと笑みを零す。
「それも素敵かもしれない」
けれど、とトリシャは背伸びをした。
穏やかに広がる風景の優しさに、時々だが涙が零れそうになる。
「私は、汚れても構わないような服とエプロンドレスでパンを焼いたり、お菓子を作ったりする方が好き」
そう言って、少女は嬉しそうに頬を蒸気させる。
変わりながらも変わらない、きっとそれが彼女らしさなのだ。
「若いのに」
瓶の蓋を閉じて、バスケットへ戻す。
変わった娘だと感じた。
「あら、好きなものに歳なんて関係ありませんよ」
人差指を立てて、左右に振る。
「ユーリとサラは立派なお医者様になるのが夢なのですって。お医者様を目指すヒトなら幾つであったとしても同じことを思うでしょう?」
そうだね、とホーエンハイムは面白げに目を細めた。
「君の夢は?」
一瞬だけ、スカートを握った手が白む。
視線を泳がせ、そそ、とホーエンハイムの隣に寄った。
口元に手を添えて、小さな声で耳打ちした。



「お母さんになること、です」



分からなかった。
何故、そのようなことを望むのか。
望まずとも、誰でもなれるものでは無いのか。
トリシャが哀しそうに微笑む理由など、ホーエンハイムは織らない。
「たくさんたくさん、子どもを愛せる素敵なお母さんになるのが私の夢」
織らないけれど、それを訊ねる気にはならなかった。
訊ねるのが何故か、恐かった。
桃色の唇が笑みを形作る。
でもきっと無理ね、呟いたトリシャの声は風と、
ピナコが彼女を呼ぶ声でかき消された。



next