重たい金属がぶつかった衝撃が、静かな室内に反響する。
機械鎧のフォルムを掲げ見ながら、
ピナコは所在無さげに診療所のベッドへ腰掛けているホーエンハイムを振り返った。
「そうかい、トリシャが」
作業台に部品を置いて一息つく。
脇に置いていた煙管に火を入れると、肺奥まで紫煙を吸い込んだ。
初めて吸ったときには、何と不味いものだろうと思ったものだが、
今は無い方が落ち着かない。
医者の不養生とは言ったものだ。
頷くホーエンハイムにピナコは眼鏡の奥で目を伏せた。
「トリシャは生まれつき身体が弱いんだ。あの子の母親も身体が弱くてね、丈夫に産んであげられなかったっていつも、泣いてた」
もう居ないがね、と付け加える。
ピナコの話によると、トリシャは父親との2人暮らし。
しかし、父親も病気で臥せっており、
トリシャが村の簡単な仕事を請け負いながら、家を賄っているらしい。
とは言え、この風土だ。
皆、何かと気にかけてくれるし、
そうでなくとも助け合って生活している。
大きな家族のようなものだ。
「トリシャは、良い子だ」
ぽつり、と彼は溜息を漏らすかのように呟きを落とす。
「あぁ、織ってるよ。織ってるからこそ悔しいのさ、皆ね」
どんなに辛いときでも、決して涙を見せずに笑っているトリシャ。
誰にでも、分け隔てなく優しいトリシャ。
花が綻ぶように微笑う様は、いつでもぬくもりを与えてくれる。
彼女が望む通り、素敵な母親になれるだろう。
「トリシャは自分をよく理解している。だから望まない、だから、我慢する」
限界を織っているから、その手前で踏み止まる。
その境界線を越えることは叶わないのだと。
その先へ想いを馳せるしかないいのだと。
「どうして、望もうとしないのに自分を理解していると言い切れる」
俯いて口を開くホーエンハイムの表情は窺えない。
組んだ足の上で両手を組み、顎を乗せる。
顰められた顔は織れたが、それが何ゆえかピナコは織る由もない。
あぁそうだねと彼女は紫煙を吐いた。
吐き出された紫煙はゆらりと天井へ向かったかと思うと、
いつの間にか立ち消えて行く。
「あの子にも、アンタくらいの愚直さがあれば良いのにね」
寄りかかっていた作業台から身を離し、灰皿へ煙管の先を引っ繰り返した。
いつか来やる未来を嘆くことはしない。
それは誰にでも訪れるものなのだから。
けれど、分かっていても、分からないものもある。
織っていても、どうにもならないものもある。
トリシャがその行く末を織っているからこそ、穏やかに微笑んでいられるのだとしたら、
それはきっと、何よりも哀しいものだ。
そうしてきっと、何よりも強いものなのだ。
その強さの脆さが見えて、やはり訳の分からない感情が渦巻くのを感じた。




古い草臥れたトランクを持ち上げ、ドアを押しやる。
コートの襟を整えて家の中を振り返った。
玄関先まで見送るピナコに、まるで明日もまた会う近所の者のように、
言葉だけの本当に軽い挨拶をする。
「じゃあな」
相変わらずの彼に、ピナコは嘆息して手を振る。
「全く、アンタはいつまでたっても落ち着きやしない」
呆れる彼女に、彼は笑う。
根無し草なのだろう。
ホーエンハイムは一所に留まらない。
何処からかふらりと来たかと思えば、すぐにまた出て行ってしまう。
何度も訪ねるのは此処、リゼンブールくらいだ。
それは必然のようでもあったし、彼が故意にそうしているようでもあった。
彼は何も語らない。
彼女は何も訊かない。
酒飲み仲間の2人の間での暗黙の了解。
だがそれは、決して恋人同士の色艶ごとではなく、
親しい友人、はたまた家族の関係に良く似ていた。
「今度は、来年の夏に来るよ」
陽射しを眩しそうに目を細め、手を翳す。
聞き違いかと思ったピナコが咥えたままの煙管を取り落としそうになる直前まで。
何度か目を瞬かせ、彼女は口を開いた。
「珍しい」
「ん?」
「アンタが約束して行くなんて、初めてじゃないか」
どんなに言っても、どんなに誘っても、収穫祭のひとつにも顔を出さない男が。
だからこそ、ピナコは彼に『いつも突然』なのだと呆れ返るのだ。
「大体、何で来年なんだい」
今は春先。
今年の夏もまだ来ていない。
これから空が近くなり、白く重たそうな雲が積もり、汗ばむ季節に移り変わる。
初夏と呼ばれる時期すら来ていないにも関わらず、彼は来年だと言う。
「今年は無理だ、来られない」
「夏に拘らなくても良いだろう」
分からない、と言った風にピナコは眉間に皺を作る。
そもそも、彼が訳のわからない人種だというのは熟知していた。
だがあくまでそれはその性格を熟知していると言うだけで、
理解しているワケではない。
知識と理解は別物だ。
意識など沈没しそうな思考回路を、ホーエンハイムはたったの一言で一掃した。
「トリシャが、月が綺麗なのだと言っていた」
今度こそ、ピナコは言葉を失った。
目は丸く見開かれており、ぽかんとした表情だった。
「何だって?」
思わず訊ね返す。
聞こえなかったのだろうかと、ホーエンハイムはもう一度同じ台詞を唇に乗せようとした。
「月が綺麗、なのだと」
「そうじゃなくて!」
要領の得ない彼の口調を一喝し、ぐるぐると回る頭を押さえ込んだ。
今、何と言った?
この男は何を言った?
誰が何を言おうとも、耳すら貸さなかった男が一体何を?
ピナコはそれに良く似た状況を思い出しかけたが、すぐに霧散してしまった。
「いや良い、やっぱり。私の気のせいだろう」
何のことだ、とホーエンハイムは首を傾げる。
しかし、そんな彼の様子を微塵も気にする素振りすら見せないピナコは、
何事かをぶつぶつと口の中で反芻している。
「?じゃあ、行くぞ」
肩越しに振り返りながらも、ホーエンハイムは彼女に背を向ける。
細い道を下り、駅に向かって歩き出す。
「あぁ、気をつけてね」
彼の背中へ手を振って、見えなくなるまで見送っているのはピナコの夫の癖だった。
何処で何をしているのか分からない彼が、本当に旅立っているのかと。
一瞬でも目を逸らせば、消えてしまいそうで恐いのだと。
笑いながら言っていた台詞も、今なら納得出来そうな気がした。




林檎の皮を剥いていたトリシャは、叩かれた扉に顔を上げた。
はぁい、と返事をして、立ち上がる。
キッチンのテーブルの上に林檎とナイフを置いて、軽く手を洗った。
扉を開けば、よく見織った顔。
「サラ」
「ブラウニーを焼いたの。トリシャには敵わないけど良かったら」
脇に避けて、どうぞと中に入るよう促す。
林檎は冷蔵庫に入れておいて、後で父に持っていこう。
トリシャは慣れた手際で、
皮を剥きっ放しにしていた林檎を切り分け、レモン汁をざっと振りかける。
「ありがとう、嬉しいわ。今、お茶を淹れるわね」
頷くサラに、トリシャは紅茶の缶を戸棚から取り出して指差す。
「この紅茶、香りがすごく良いのよ」
「楽しみね。じゃあ、その間におじ様に顔を見せてくるわ。私、明日には帰るから」
「喜ぶわ。そう、もう帰るのね。寂しい」
「夏にはまた来るわよ」
快活に笑うと、サラはトリシャを振り返った。
やかんに水を入れ、コンロにかける。
サラの目から見ても、トリシャは可愛らしい女の子だった。
栗色の猫毛を本人はちっとも纏まらないと不服そうにしていたが、
サラにしてみれば羨ましい。
女の子はいつも他人がきらきらしく見えて、羨ましく思えるもの。
少しでも可愛くなりたくて、大切なヒトに可愛いと思われたくて。
サラも勿論例外ではない。
トリシャはちょっとばかり夢見がちなところはあるが、それも魅力のひとつだ。
「いっそのこと、ユーリが引き止めてくれたら良いのに」
「ユーリ?」
彼女の父の自室へと向かおうとしていたサラが立ち止まる。
そうよ意気地無し、とトリシャは頬を膨らませた。
「結婚してしまえば、サラはずっと此処にいられるわ」
何を言われているのか分かなかった彼女は幾許もの間を呆けた。
暫くすればみるみると顔が紅く染まっていく。
唇を戦慄かせた後、両頬を押さえて声を荒げた。
「トリシャ!」
奥に病人がいることを思い出して、慌てて口を両手で塞いだ。
驚きもせずに、トリシャはぱちくりと目を瞬かせた。
「考えたことが無いわけじゃないでしょう?」
うっ、と声を喉に詰まらせ、スカートの裾を握り締める。
可愛い、とトリシャは思うのだが、
今言ってしまってはからかわれていると思われかねない。
それはトリシャにとって非常に不本意だ。
「そ、そりゃ…じゃなくて、私達は良いの!トリシャはどうなのっ?」
「私?」
「気になるヒトとか居ないの?」
気になるヒト、トリシャは口の中で幾度か呟くと、ぱむと手を叩いた。
「居るわ、ホーエンハイムさん」
がくりとあからさまにサラは肩を落とした。
どうにも彼女のピントがずれているように感じて、そうじゃなくて、と項垂れた。
「あのね、とっても不思議なヒトなのよ。少し話しただけなんだけど、色んなことを織っているし」
「トリシャらしいわね」
不思議そうに首を傾げてみれば、彼女は苦笑して席を立った。
彼女の父親が臥せっている部屋はキッチンのすぐ隣で、
トリシャは用事がなければ大抵此処に居る。
刺繍をしてみたり、本を読んだり、ひとりでも出来ることはある。
父の話相手も愉しい。
幼い頃から聞き飽きない昔話も、余り憶えていない母の思い出も、
トリシャにとってはひとつひとつがきらきらしい宝物だ。
サラが奥の部屋へ入るのを見届けると、
トリシャは缶から茶葉をティーポットへと一掬い振り入れた。




こんこんこん。
控え目なノックをして、静かに扉を押してみる。
「今日和、おじ様」
中を覗き込めば、ベッドに上半身を起こして本を読んでいた初老の男は顔を上げた。
トリシャと同じ栗色の髪は所々が白んでおり、
彼を実年齢よりも老けているように見せる。
肩に掛けるだけにしていた上着を羽織り直し、表情を和らげた。
眼鏡を外し、傍らのテーブルへと静かに置く。
「何処のお嬢さんかと思ったよ」
トリシャから聞いていたのだろう、彼はサラを見ても驚かなかった。
綺麗になったね、と褒められ、サラは頬を紅くする。
「口がお上手。滅多に言われたことなんてありませんわ」
ベッド脇の椅子を引き寄せ腰掛けた。
テーブルには水差しと薬が置かれている。
「ユーリが言ってくれるんじゃないのかい?」
「いいえ、ちっとも!」
頬を膨らませて、腕組をするサラに彼は声を上げて笑う。
顔色は良さそうだ。
足さえ患っていなければ、外への散歩も勧められるのに。
サラはひとりごちる。
ピナコが言うには、足を患ってからの老化はあっという間だったらしい。
寝たきりに近い生活に、どうして慣れることなど出来ようか。
年々身体は弱くなり、時には発作を起こすようにもなった。
医者の卵であるサラやユーリが時折、こうして様子を見に来る。
酷いときにはトリシャがピナコを呼ぶのが常だった。
再び、扉がノックされる。
彼の様子を見る限り、トリシャでは無いようだった。
サラも彼に倣って扉を振り返る。
「今日和」
面白そうに彼はくつくつと喉を鳴らして笑う。
「ユーリも来たのかい、今日はお客様が多いね」
「何だ、居ないと思ったら此処に居たのか」
今気付いたかのように、椅子に掛けたサラを見やり、ユーリは声をかけた。
サラはこめかみに鈍い痛みを感じ、指を当てる。
はああ、と大仰に溜息を吐いてみれば、彼は失笑した。
「ほらね、おじ様。ユーリはこういう奴なんです」
意図を掴めないユーリは目を瞬かせ、視線をサラと彼の間で行き来させた。
何が、と言いたげに首を傾げる。
「ユーリ、嘘でも『君を探しに来た』くらい言える甲斐性が無くては、いつか愛想を尽かされるぞ」
彼とサラが顔を合わせて笑い出し、からかわれているのだと織る。
わざと腹を立てた様子を見せて、ユーリは彼女の隣に掛けた。
「今日は随分元気なんですね」
「若くて綺麗なお嬢さんがお見舞いに来てくれたからね」
彼は軽くウインクをする。
それが可愛らしく見えて、サラとユーリは堪えきれずに噴出した。
膝元に置いたままの本を枕元に退かし、彼は窓の外を眺めた。
何処まで広がる優しい緑。
遠くにぽつぽつと見える白い群れは羊だろうか。
長閑でゆっくりと流れる情景に、懐かしさが込み上げる。
「…最近は、昔のことばかり思い出す」
ぽつり、と彼は零した。
「昨日は、初めてあれと町へ出かけたときの夢を見たよ。あぁ、年寄りの昔話なんて面白くもないかな」
「そんなことありませんわ、是非聞かせて下さい」
苦笑する彼に、サラは首を振る。
彼の顔を覗き込むと、少し照れたように目を細めた。
何だったかな、と彼は重ねた手の上側に置いた右手で、左手をゆっくりと撫でる。
「映画を観に行って、お互いの趣味も分からないから無難な恋愛映画を選んだ。2人とも緊張していて、映画の内容なんてさっぱり入ってこない」
暗がりの中、垣間見た彼女の横顔は固く結ばれた口元が印象に残った。
目は真っ直ぐスクリーンに向けられ、手を握ることも叶わず、
カラカラカラと映写機の廻る音だけがやけに大きく響いた。
「観終わって、私達は何を言ったと思う?」
「適当な感想で賞賛?」
まさか、と彼は手を振った。
「『今、眠たくて仕方が無い』、私達は瞬きすることすら忘れてスクリーンを凝視していた。そりゃあ、目も疲れるさ。それで大笑いして、やっと緊張が解けた」
立ち寄ったカフェでお茶をしながら、声を上げて笑った。
通りすがりのヒトが何事かと覗いて行ったが構わなかった。
運ばれた珈琲はすっかり温くなってしまって、
お代わりを頼んだときに、彼女はケーキまで一緒に頼んでいた。
『実は、緊張しすぎで朝食もまともに食べてないの』
自分もそうだと言えば、気が合うわねと彼女はあどけなく破顔した。
「でも素敵」
サラは頬に手を当てて、うっとりと溜息を吐く。
彼にもそんな頃があったのかと、ユーリは驚く。
ユーリの記憶にある2人は、自分の親とは違い、
優しく落ち着いた感じのするヒト達だった。
父親よりも腕っ節の強い母親を見ていると、彼らが羨ましく思ったものだ。
嘗て、リゼンブールの女豹とまで婀娜名されていた母親だからこそ、
頼もしくはあるのだが。
「サラは、綺麗な花嫁になるだろうね。ユーリは果報者だ」
彼と視線がかち合う。
ユーリは頬が紅くなるのを感じながら、ひらひらと手を振った。
「まだ、そんなこと少しも考えていませんよ」
「あら、そんなこととは失礼ね」
またしても失言だったのか、サラは眉を吊り上げる。
口喧嘩をしていても、渋い顔をするユーリと彼女は似合いだ。
遠くない将来、彼らの晴れ姿を見ることが出来るだろう。
「トリシャにも早く、そんなヒトが現れると良いんだが」
2人を優しい眼差しで見つめながら、彼は扉の向こうの娘を想う。
どうにも世間ずれした感のあるトリシャだ。
もし好意を寄せてくれる者があったとしても、素通りしかねない。
「心配しなくても、トリシャだったら大丈夫ですわ。あんなに素敵な女の子、私が男だったら放っておきませんもの」
彼の手を取り、サラは力説する。
その力説ぶりに、ユーリが不安を憶えたほどだ。
徐に口を開くと、落ち着いたトーンで彼は2人を交互に見やった。
「ユーリ、サラ、私の頼みを聞いてくれるかい」
「頼み?」
声を合わせて、2人は彼を見つめ返した。
彼の瞳は揺らぐこと無く、まっすぐに2人を見つめている。
真剣な眼差しに、2人は口を噤んだ。
彼はベッドマットとヘッドボードの間に手を入れ、紺の紐で括られたものを引き出す。
「これを、預かっていて欲しい」
自然と差し出したユーリの手に、冷たい感触が残る。
「鍵?」
彼は頷き、部屋の隅を指差した。
昼間だが、そちらの方は薄暗い。
「その、奥にあるクロゼットの鍵だ」
そこまで古めかしくは無いが、今は使われていないクロゼットが静かに佇んでいる。
ユーリが幼い頃から、何度も目にしているものだ。
あれ、とユーリは声を漏らす。
「おばさんのクロゼット、鍵は失くしたってトリシャが」
トリシャの母親が亡くなったばかりの頃、
何処を探しても無いのだと、少女が哀しそうに笑っていたのを思い出す。
彼も一緒になって探したが、結局見つからなかった。
縁が無かったのね、と諦めるようにクロゼットを撫でていたトリシャに、
何と声をかければ良いか幼いユーリには分からなかった。
「私がそう、教えた」
俯き、彼は瞳を閉じた。
至極当然のようにして言う彼に、ユーリは微かに苛立ちを憶える。
彼とて、トリシャの想いを織っていたはずなのだ。
「どうして、そんなこと」
ぽん、とユーリの手を叩く。
「開けてごらん。トリシャが居ないときに、ピナコに頼んで手入れして貰っているから、そう埃っぽくはないはずだよ」
戸惑うユーリの手から鍵を受け取ると、
サラは立ち上がってクロゼットの鍵穴に鍵を差し入れた。
かちり、と錠の外れる音がする。
「…これ、って」
触れても良いものか迷い、サラはクロゼットを大きく左右に開いた。
風を受けて、レースのヴェールが翻る。
シルクの生地がきらきらと光を帯びる。
細やかに編み上げられているレースが縫い込まれた、
真白なウエディングドレスだった。
「トリシャの母親のものだ、見事だろう?」
懐かしそうに彼はテーブルに立ててある妻の写真を目の端に映した。
声を失っていたサラはこくりと頷く。
「いつか、トリシャに譲ろうと話していた」
遠くで、陶磁器がぶつかる音がする。
もうすぐお茶が入るのだろう。
サラは慌ててクロゼットを閉じた。
鍵を引き抜いて、彼へと返す。
だが、彼は受け取らない。
両手で握るように、サラは鍵を包み込んだ。
「だったら、どうして私達にこんな大事なものを預けるんです?」
忙しなく腰掛けながら、トリシャがいつ来ても良いように、何も無かった風を装う。
トリシャがまだ来ないことに安堵して、サラはユーリへと鍵を渡した。
「きっと、私は間に合わないだろうから」
ぴたり、と2人の動きが止まる。
まるで、そこだけ時間を切り取ったかのようだった。
痛みを堪えたように、きつく眉根を寄せる。
サラは身を乗り出して、彼へと食い付いた。
「莫迦、なことを、仰らないで下さ…っ」
声が喉に詰まる。
言いたいことが言葉にならない。
目の前が暈ける。
溢れかけた涙を堪えきれず、サラは口元を押さえて嗚咽を噛み殺した。
ユーリはそんな彼女の肩に手を置いて、彼を睨む。
「そうですよ、おじさんには早く元気になってもらって、母さんの酒の相手をしてもらわなくちゃいけないんですから」
鍵を返そうとするユーリの手を、節張った手がそっと包んだ。
ゆるゆると首を振る。
己が身体が長くないことなどとうに悟っていた。
5年も持てば良い方だろう。
去り際は心得ている。
「頼んだよ、ユーリ、サラ」
そう言って、彼は穏やかに微笑んだ。




湧いた湯を眺めながら、奥の扉を盗み見る。
何やら話し込んでいる様子を感じ、茶を持って行って良いものか迷う。
後から来たユーリも中から出て来ない。
切り揃えたブラウニーにクロテッドクリームを添えて、皿に盛り付ける。
窓辺で育てているセルフィーユの鉢植えから少しだけ葉を失敬して、
クリームの上に乗せた。
どうしようかと考えあぐねていれば、がちゃりと扉が音を立てて開く。
「トリシャ、お茶運ぶんだろ?手伝うよ」
「え?あぁ、そうね。お願いしようかしら」
指先に付いたクリームをぺろりと舐めながら、彼の好意を有り難く受け取る。
シュガーポットとミルクポットをトレイに乗せて、
お願いね、と渡そうとしたが、その手は止まってしまう。
「なぁに?恐い顔」
不思議そうに訊ねるトリシャに、ユーリは何でもない、とぶっきらぼうに踵を返す。
彼らしくない。
少なくとも、トリシャはそんな彼をあまり織らない。
ただ、トリシャが織らないだけかもしれないけれど、それでも珍しい。
「待って頂戴、ユーリ」
トリシャはユーリの服の袖を指先で引っ張る。
「駄目よ」
振り返る彼に、少女はもう一度駄目よ、と繰り返す。
彼が訊ねることは、無い。
自身も分かっているのだろう。
少女もまた、何を、とは言わなかった。
「…トリシャは」
「私?」
「誰かに嘘を吐かれていたとしたらどうする?」
「嘘?」
トリシャにとっては突拍子も無い問いに、
カップを並べながらそうねぇ、と考える仕草を見せる。
その間、無機質な陶器がぶつかる音だけが木霊した。
「仕方ないのでは無いかしら」
くすり、とトリシャは小さく笑う。
「仕方ない?どうして」
「嘘、は、嘘、でしょう?そうしなければならなかったのよ、きっと」
「本当にそう思えるのか?騙されていても?」
何処かムキになるユーリへ、トリシャはぱちくりと瞳を瞬かせた。
えぇと、紡ぐ言の葉を選びながら、少女はソーサに持っていたカップを載せる。
ティースプーンを添えて、レモンも切るべきかと考える。



「嘘を吐くのと、騙すのは違うわ」



当然のようにして、トリシャはきっぱりと言い切る。
やけに間延びした返事に聞こえて、ユーリは苛立ちを微かに滲ませた。
「同じだよ」
「いいえ、違う。嘘は赦されるものよ」
赦されて然るべきものなのだと、トリシャは首を振る。
真っ直ぐに見返され、ユーリは押し黙った。
トリシャは妙に大人びた口調をすることがある。
トリシャに限らず、女とは皆そういったものなのだろうか。
ユーリはサラを思い出して、そうかもしれないとひとり納得した。
「嘘は、嬉しいものもある。けれど、騙すのはそのヒトへの嘲りと不誠実しかない」
例えば、誕生日。
驚かそうと、皆が揃って嘘を吐く。
それは決して不快なものではないはずだ。
優しい、愉しい、嘘。
その根底にあるものが、悪意ではないと織っているから。



「だからね、ユーリ。私は誰かに嘘を吐かれても、構わないのよ」



ユーリは、はっと息を呑む。
まさか、もしかすれば、もしかすると。
仮定の言葉が次々と浮かぶ。
口にして、確かめることは叶わない。
トリシャは気付いているのではないだろうか。
ひょっとすると、全て気付いた上で頷いているのだろうか。
否、とユーリはそれらを否定する。
トリシャは何も織らない。
何も織らないからこそ、曖昧な憶測しか出来ない。
それは、幼い頃から共にあった少女への直感でもあった。
(きっと私も、嘘を吐いている)
ユーリの背を押して、奥の部屋へと促す。
トリシャは溜息を吐きたい衝動をぐっと抑えた。



―――父さんに、ユーリに、サラに、ピナコさんに、皆に



大丈夫、まだ大丈夫だと己に言い聞かせ、頭を覆う黒い靄を振り払う。



―――私はこの世界に嘘を吐いている



払いきれない念いが、洞へと誘う。




―――願えるはずなど、無い




口にしそうになった想いを、ずっと奥へと仕舞い込む。
そう、決して叶うはずのない願いを。





願うものなど、無い。
望むものなど、何も。
ずっと、自分に言い聞かせていた。
そう思うことすら不自然だと思わないほどに、ずっと。




相変わらず長閑な畦道を足取り軽やかに歩く。
甘酸っぱい香りが鼻腔を付く。
三つ角の老婆に食べきれないからと貰った籠いっぱいのオレンジを抱いて、
トリシャは上機嫌で歌を口ずさんだ。
切り分けてそのままでも、ジュースにしても良いかもしれない。
鍋いっぱいのジャムにして、村の皆にお裾分けでも構わない。



「Hey diddle diddle
The cat and the fiddle
The cow jumped over the moon
The little dog laughed
To see such sport
And dish ran away with...」*



エプロンで覆ったスカートを膨らませ、くるりと廻って立ち止まる。
鼻先がとん、と前を歩いていた男の背にぶつかった。
浮かれるのも程ほどにしなければ、トリシャは自分に呆れながら、
慌てて目の前の男に詫びた。
「おや」
「あら」
2人は顔を見合わせて呆ける。
最初に我に返ったのはトリシャだった。
恥ずかしそうに頬を紅く染めて、オレンジの籠を胸に抱き締める。
「お久しぶりです、ホーエンハイムさん」
彼はあぁ、と返事をすると、可笑しそうに笑った。
後ろで束ねた黄金色の髪も、眼鏡の奥の遠くを見据えるような瞳も、1年前と変わらない。
何故か、トリシャは安堵した。
「君が歌うところを初めて見た」
ぼん、と音がするかと思うくらいにトリシャの顔が真っ赤に染まる。
視線を泳がせながら、懸命に言い訳を探した。
聞かれていたとは思っておらず、恥ずかしさが一気に込み上げる。
「そ、それは、その、誰も居ないと思って、あの…わっ、忘れて下さい!」
オレンジの籠に顔を埋め、必死に言い繕う少女にホーエンハイムは益々笑った。
「すまない、意地悪を言ったつもりは無かったんだが。おいしそうなオレンジだね」
「良かったら差し上げますわ、2つでも3つでも」
「もしかして口止め料の賄賂かい?」
「賄賂です」
至極真面目な顔をして、ホーエンハイムの手の中にオレンジを収める。
そうしてまた、今度は2人して笑い出した。
遠くで蝉の鳴き声がする。
空の端に、厚い雲が折り重なって積みあがっている。
太陽はじりりと照り付け、すっかりと夏の装いだ。
「暑くなったね」
汗をハンカチで拭い、ホーエンハイムは袖を捲り上げた。
上着はとっくにトランクの中だ。
「夏ですから」
ふふ、とトリシャは彼の隣を歩く。
少女よりも頭ひとつと半分ほど大きいホーエンハイムは、
見上げなければ視線を合わせることも叶わない。
彼の横顔を盗み見て、自分の父親と比べてみる。
だが、格段にホーエンハイムの方が若く見えた。
幾つなのだろう、一瞬だけ浮かんだが、すぐに立ち消える。
歳など聞いても、すぐに忘れてしまうに違いない。
彼が彼であることに、それはさして意味を持たないようにも思えた。
「また、ピナコさんにご用事ですか?」
「ん?」
ふぅっと息を吐いて、彼は背伸びをする。
首を左右に傾け、凝りを解すかのような動きを見せた。
道の向こう側に陽炎が浮かぶ。
ゆらゆらと揺れる様は、水面にも似ていた。
「夜空が綺麗だと、言っていただろう?」
え、と返す間も無く、ホーエンハイムは続ける。
「月も星も、当然にあるものだと思っていた。けれど、不思議だね。ヒトに言われると本当にそういう風に見えてくる」
「それは、違うわ」
トリシャは立ち止まり、ホーエンハイムを見つめた。
「きっと、違う。それは最初から貴方の中にあったもの。ヒトの言葉なんてきっかけに過ぎない」
歩を進め、彼に並ぶ。
だから、とトリシャはにっこりと微笑んだ。
「ホーエンハイムさんは、最初から素敵なヒトなのだわ」
思いも寄らなかった賛辞に、ホーエンハイムは言葉を失う。
トリシャの言葉や行動は突拍子も無い。
初めて顔を合わせた時も、そう印象を受けた。
だから、だろうか。
くるくると変わる表情も、範疇外の台詞も、
彼が今まで見織ったものとは違って引っかかる。
否、引っかかると言う言葉は適切ではない気がした。
だが何と呼べば良いのか分からない。
「君は、不思議な子だね。私が恐くないのかい?」
「恐い?」
「得体が織れないだろう」
「得体が織れない…」
鸚鵡返しに唇に乗せた言葉は色を持たない。
意味を理解していないのだろうかと思わせるほどに、
トリシャは首を傾げたままだった。
「ホーエンハイムさんは何をしているヒトですか?」
突然向けられた問いに、ホーエンハイムは目を瞬かせた。
一間置いてから口を開く。
「私は錬金術師だよ、一応ね」
そう、とトリシャは目を丸くする。
錬金術師と呼ばれるヒトを見たのは初めてだった。
黄金を作る術、と言ってしまえばそれまでだが、
要は物質の基盤たるものを理解し、分解、再構築する術。
詳しく織らない者達にとっては、魔法のようなものだ。
何かを別のものに作り替えるのは料理に似いてるわね、とぼんやり思う。
トリシャは手を伸ばして、彼の手を取った。
「ホーエンハイムさんは錬金術師。ほら、これで得体が織れないなんてことは無くなったわ」
ね?とあどけなく微笑う少女にホーエンハイムは諦めたように眉尻を下げた。
「トリシャには敵わない」
「じゃあ、敵わないついでにもうひとつ」
トリシャはホーエンハイムの前に人差指を立てる。
何処か拗ねたような表情を感じるのは気のせいだろうか。
「ピナコさん達と同じように、私の前でも『俺』って言って下さい。貴方らしいとは思うけれど、『私』じゃ余所余所しくて寂しいのだもの」
ホーエンハイムにしてみれば、それは大したことではなかったのだが、
トリシャがそう言うのであれば彼女にとってそうなのだろう。
いつか、少女は彼を友人なのだと言った。
だとすれば、少女の言うことは一理あるのかもしれない。
暫く考えた後、ホーエンハイムは笑って頷いた。




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