高く月が東の空に昇る。 その眩しさに、星々は形を潜めた。 月だけが煌々と耀く夜闇の空は、しんと静まり返っている。 細い三日月は猫の目を思い出す。 ベッドに足を放り出し、トリシャは窓から空を見上げた。 「月を捕まえて、ランプの中に閉じ込められたら良いのに」 そうしたらきっと、素敵なランプの灯りになるに違いない。 少女は空へと腕を伸ばす。 届くはずも無いけれど、自分の手のひらとその煌きが重なると、 手の中に月が宿った気がして嬉しくなった。 ふと、眼下の影に気付く。 月明りの中、ぼんやりと誰かが歩いている。 地上に薄らと縫い付けられた影がすぅっと長く伸びた。 トリシャは窓を開けて、窓枠から身を乗り出した。 「ホーエンハイムさんっ」 あまり響かないように、けれど届くようにトリシャは叫ぶ。 影が此方を見た。 眼鏡が光を反射させている。 彼が手を振ったのが分かった。 トリシャは窓を閉めると、ショールを引っ掛け、急いで階段を降りていく。 父親の部屋にひょこりと顔を出せば、 彼はまだ起きていたようで何事かと日記をつけていた目元から顔を上げた。 「トリシャ、どうしたね」 「ちょっと出かけてくるわ」 「今から?こんな時間にかい?」 今からでなければならないの、 そう言うとトリシャは嬉しそうに頬を上気させて早口で捲くし立てた。 「デートなの」 いってきますとドアが閉まるのは同時だった。 彼は目を丸くして、閉じられたドアを見つめる。 せめて、いってらっしゃいくらいは言わせて欲しかった。 思って、彼は面白げに失笑した。 ぱたぱたと足音が宵闇に吸い込まれる。 息を切らして、トリシャはホーエンハイムに駆け寄った。 「良かった、もう行ってしまったかと思った」 「トリシャ、こんな時間にひとりでは危ないよ」 「ひとりじゃないわ、ホーエンハイムさんが居るもの」 寝巻きのワンピースにショールを羽織っただけのトリシャに、 ホーエンハイムは苦笑した。 「でも、一体どうしたんだい?急ぎの用事でも?」 え、とトリシャは動きを止める。 訊ねられてから、そういえば、と理由を探した。 暫く考えてみたが、どうにも分からない。 頬に手を当て、首を傾げた。 「貴方の姿が見えたから、つい」 思ったままを口にしてみる。 彼が呆れているのが何となく分かった。 月明りで明るいと言っても、やはり夜だ。 手に取るように表情が見える訳では無い。 「それと、月が綺麗だったから」 貴方は?と訊ねれば、彼も夜の散歩だと言った。 トリシャはホーエンハイムの手を取った。 月夜の散歩も素敵だわ、少女は屈託無く無邪気に笑う。 「これって、デートみたいじゃありません?」 「こんなおじさんとで楽しいかい?」 「えぇ、とっても」 くすくすとトリシャは彼の手を引っ張る。 暗がりの中、小高い丘を指差した。 トリシャの白い肌がふわりと浮かび上がる。 昼間、約束通り訪れたホーエンハイムに、 本当に来た、と驚いた表情を見せた室内業のピナコでも此処まで色は白くない。 彼女の儚さを一層強く見せて、ホーエンハイムは気付かれない程度に顔を顰めた。 「あそこ、空がとても近いの。リゼンブールを見渡せるのよ」 子どものようにはしゃぐトリシャに、 ホーエンハイムは半ば引き摺られるようにして彼女の歩みに合わせる。 緩く結われた栗色の髪がふわりと揺れた。 2人分の影が大地に張り付く。 丘へと続く道は一本道だ。 空を指差し、ホーエンハイムがあちらの空にはこの星座があって、 そちらの空にはあの星座があるなどと、 トリシャの織らないことを語っては驚かせた。 行ったことも見たこともない国の話や、他の国のヒトや珍しい動物の話、 ホーエンハイムはまるで知識の泉のようだ。 次から次へと飛び出してくる話は、トリシャをちっとも飽きさせずに魅了していく。 「今度、珍しい物語の本を持って来よう。きっと気に入ると思うよ」 初老の、皺が刻まれた顔を彼は穏やかに緩ませた。 嬉しい、とトリシャは目を耀かせる。 楽しみがまたひとつ増えた。 約束もまたひとつ増えた。 「今度は、いつ?」 いつ、と問われ、ホーエンハイムは顎に手を当ててふむと唸る。 「いつが良いだろう」 「じゃあ、春。来年でも再来年でも構わないの。春キャベツのスープを御馳走するわ」 それと、花壇いっぱいのチューリップ。 たんぽぽの綿毛をふぅっと飛ばして、次の春に咲くのを待つの。 素敵でしょう、トリシャは彼へと笑いかける。 月が真上に昇った頃、ようやく2人の逢瀬は終わりを告げた。 鳥が羽音を響かせ飛び立つ。 蒼い空に、白い羽が耀かんばかりに浮かび上がった。 暑くも無く、寒くも無い。 丁度良い気候だ。 トリシャは手にした百合の花の芳しさに頬を緩めながら、共同墓地の入り口を潜る。 冷たい石畳と墓石を包み込むような柔らかな芝生の緑色。 視線の先に、此処の所1年に1度以上はリゼンブールに顔を見せるようになった見織った顔を見付けたが、 声をかけるのを躊躇い、思い留まる。 彼は神妙な顔付きで、まっすぐにひとつの墓標を見つめていた。 そこに刻まれた名を、心にも刻み付けるかのように見つめていた。 トリシャはそこに眠る者の名を織っていた。 ピナコと怒鳴りあいながらも仲睦まじく見えた幼い記憶。 彼の持つ注射は恐かったけれど、 医者としての彼も、幼馴染の父親としての彼も大好きだった。 「…ロックベル」 彼はぽつりと呟いた。 うっかり風にかき消されてしまいそうな声だった。 トリシャは、胸の奥がぎゅうっと締め付けられる心地に囚われる。 彼のあのような表情を織らない。 そのような表情をさせるものを織らない。 面に影を落とし、憂いを帯びた色を織らない。 それらを打ち消すようにして、トリシャはホーエンハイムに声をかけた。 「ホーエンハイムさん」 わざと明るい声で、笑顔で、トリシャは彼の隣に並ぶ。 「やぁ、トリシャ」 彼はいつもの何処か抜けたような笑みでトリシャを迎える。 不思議と、安堵した。 持っていた花を掲げ、彼の向こう側を見やる。 「私も母さんのお墓参りに」 そうか、と返して、ホーエンハイムは再び目の前の墓標へと視線を落とした。 隣の墓に傅き、トリシャは真白な百合と祈りを捧げる。 墓標に刻まれているのは彼女の母の名。 共に綴られているのは、彼女への悼みと安寧。 触れてみても、ただ冷たいだけの墓石にやるせなさが込み上げる。 ぬくもりは勿論無い。 「君は、何に祈りを捧げるんだい?」 墓石に触れていた手をそのままに、彼女はホーエンハイムを見上げる。 「そこにあるのは、ただの抜け殻だ」 「抜け、殻?」 「魂と言う名の熱量を失った、抜け殻だよ」 彼が何を思ってそのように言うのか、 当てはまりそうな答えが浮き沈みを繰り返した。 錬金術師の言うことは、かくも物質染みている。 それをヒトにまで擬えずとも良いではないだろうか。 普通ならばそう思う。 ―――あぁ、何だ。そうだったんだ トリシャは胸中でこっそりと呟く。 何故ならそれは、恐らく彼自身が気付いていないこと。 気付こうとしていないこと。 ―――案外不器用なのだわ、このヒトは そう結論付けることで、ヒトの死を他の誰でもない、 自分自身に納得させようとしているように見えた。 トリシャはそうね、と頷く。 「抜け殻かもしれないけれど、抜け殻になる直前までは、確かに大切なヒトだったわ」 百合と合わせて包まれていたかすみ草がしゃらりと鳴いた。 「大切なものの姿かたちが変わったからって、すぐに嫌いにはなれない。蔑ろには出来ない」 風に乱れる髪を押さえつけ、トリシャは立ち上がる。 彼と視線を合わせると、にこりと笑った。 「ヒトは、そういうものよ」 柔らかな栗色の髪が言うことを聞かないのだろう。 トリシャはあぁもう、と口を尖らせる。 「だから今、ホーエンハイムさんが感じていることも、ヒトとして当然なのだと思うわ」 「俺が、感じているもの?」 意外そうに目を丸くしたホーエンハイムに、トリシャは苦笑した。 「哀しいのでしょう?」 寂しいのでしょう、とトリシャは繰り返す。 彼は全く思い当たっていなかったのか、目を丸くしたまま立ち尽くしていた。 何をそんなに驚くことがあるのだろうか。 それこそトリシャには不思議でたまらない。 「…そうか、そうだな。君の言う通りかもしれない」 くしゃり、と彼の顔が歪められる。 泣くのを誤魔化す為に笑おうとして、失敗したような顔だった。 とても切なくて、とても愛おしかった。 だからトリシャは、ずっと訊けなかったことを口にした。 「ねぇ、ホーエンハイムさん」 いつか彼に訊こうと思っていたことを口に、した。 「私が死んでも、そんな風に哀しんでくれますか?」 ―――その後もずっと、忘れずにいてくれますか ざぁ、と風が喧しく鳴いて通り過ぎた。 光に反射した眼鏡のレンズのお陰で、彼の瞳は隠される。 トリシャは彼の返事をじっと待った。 ぼそり、と皺枯れた声が風の向こうに聞こえる。 え、と訊ね返したと同時に、今度ははっきりと彼の声が耳に届いた。 「…冗談でも、そんなことを言うものじゃない」 トリシャは微かに目を見開く。 初めて聞いた、押し殺したような声。 ホーエンハイムは踵を返すと、墓地の入り口へと足を向けた。 その背を見やりながら、トリシャは立ち竦んだ。 呼び止めることすら叶わない。 そもそも、声が思うように出て来ない。 音を宿さず、息が漏れただけだった。 ホーエンハイムと入れ違いに、花を携えたピナコが墓地へと入ってくる。 挨拶も、目を合わせようともしなかった彼を訝っているのか、 肩越しに振り返って眺めていた。 首を前に戻して、ピナコは呆れて嘆息する。 「何だい、あの男は。全く…トリシャ?」 トリシャに気付いた途端に、彼女はぎょっとして駆け寄った。 「トリシャ、一体どうしたんだい?まさかアイツが何か」 トリシャは流れる涙にようやっと気付く。 気付いた瞬間、哀しさがどっと溢れ出た。 アイツが誰を指すのか分かって、トリシャは懸命に首を振った。 両手に顔を埋めて涙を止めようとしたが、嗚咽が漏れるだけだ。 「…どう、すれば」 「え?」 嗚咽交じりの台詞に、彼女の背を撫でて宥めていたピナコは顔を上げた。 背を屈めたトリシャは、額を彼女の肩口に押し付けるようにして触れる。 「どうすれば、あのヒトに近付けますか…っ」 ―――どうすれば、彼と同じ世界を見ることが出来る…? トリシャの言葉を、呆然と受け止める。 子どものように泣きじゃくる少女は、もう少女では無くなっていて。 誰かを想う気持ちは、ピナコ自身もよく織っていて。 強い想いと言うのはどんなときにも厄介だ。 ピナコは掛けるべき言葉が見当たらず、トリシャを前に途方に暮れた。 気だるげな身体を起こし、トリシャはぼんやりと窓の外を見やる。 陽はとうに昇りきっており、忙しなく襲い来る頭痛に眉根を寄せる。 腫れぼったい瞼が、止まることの無かった涙を物語っている。 泣いている様を美しいと評するものもあるが、 翌日のこの顔を見れば、美しいなどという賛辞が間違っていたかを悟るだろう。 夕べ熱を出したトリシャに、 ピナコが翌日の父親の面倒は自分が見るから寝ていろと言われたのを思い出した。 部屋の隅に置かれている姿見に自分が映ると、トリシャは露骨に顔を顰めた。 「…酷い顔」 襲い来る頭痛は、発熱の所為ではないことを彼女は織っていた。 起きなければ、トリシャは寝台から足を下ろして室内履きのサンダルに足を突っ込む。 ぼさぼさの髪に櫛を通し、もう1度ドレッサーの鏡を覗いた。 先程と何ら変わりない顔。 とうとう昨晩中泣きはらした目は紅く充血し、 気を抜けば簡単に落ちて来る瞼を懸命に押し上げた。 軽く頬を抓り、感覚を確かめる。 「痛…」 夢ではない。 ならば、今この胸にある想いも夢では無いのだろう。 どうかしている。 トリシャは鏡に額を押し付けた。 冷んやりとした鏡面が心地良い。 「怒らせたのね、私」 何がいけなかったのだろう。 何が気に障ったのだろう。 トリシャは考えるが思い付かない。 思い付かない、と言うよりも考えることを拒否しているようだった。 (きっと嫌われたわ) じわりとまた涙が滲んでくる。 両手に顔を埋め、ドレッサーに肘を付いた。 ―――嫌われた ―――嫌われた ―――嫌われた ―――嫌われた ―――かな、しい どうかしている。 トリシャはひとりごちる。 彼から見たら、自分はただの小娘に過ぎないのに。 リゼンブールに立ち寄った時に纏わり付いて来る喧しい子どもでしかないのに。 こんな想い、おこがましい。 忘れてしまおう、強く、強く思うのに、想いは溢れて抑えが利かない。 そうしてはっきり自覚する。 自覚してしまった自分に驚いた。 「私はあのヒトが好き、なの…?」 何処か他人事のように聞こえ、トリシャはまさか、と頭を振る。 哀―かな―しさと、愛―かな―しさ。 そうすれば、今流している涙の理由すら簡単だ。 違う、と小さく呟くが、肯定する声も、否定する声も傍には無い。 「違う、わ」 ぎゅう、と胸元を握り締める。 頼りなさげな心音が、とくりとくりと繰り返す。 鏡に触れ、情けない顔をした自分と見詰め合った。 「違うのよ」 お願いだから、だがトリシャは最後まで紡げない。 声は嗚咽に摩り替わり、大粒の涙が床に落ちる。 結局1日中、部屋から出ることは叶わなかった。 |
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