トリシャは上機嫌だった。
お気に入りのカップを割られても、洗濯物の染みが落ちなくても、
ケーキが思うように膨らまなくても、
今なら全部許せそうな気がするくらいに上機嫌だった。
ベッドに寝転がり、可愛らしく縁取られたカードを翳す。
中にも可愛らしい字で綴られたメッセージ。
それを見る度に、トリシャは頬が緩んでしまう。
声にして笑ってしまいそうになるのを堪える毎日だ。
カードを手渡されたのは、ほんの数日前のこと。



トリシャは目を丸くしながらも、心の何処かで漸くなのね、と呆れてもいた。
気恥ずかしそうに手渡されたカードを、彼女はにっこりと微笑って受け取る。
「やっと決心したのね、ユーリったら!良かったわね。おめでとう、サラ」
サラの頬に軽くキスをして、トリシャは彼女を抱き締めた。
トリシャの頬にもキスを返して、サラは頬を染める。
何て可愛らしいのかしら、と胸中でひとりごちた。
「ありがとう、トリシャ」
外で洗濯物を干していたトリシャに、渡されたのは紛れも無く結婚式の招待状。
風に、石鹸の薫りが舞う。
絶対に晴れるに決まっていると確信めいたものを感じながら、
トリシャはもう一度おめでとうと繰り返した。
「トリシャ、貴女レース編めたわよね?」
「えぇ…?」
軽く頷くと、がっしと洗濯籠を持ったままの手を握られた。
「お願いがあるのよ」
いつになく真剣な眼差しを正面から受け止め、
その気迫に負けそうになる。
自分に出来ることなら、そう前置きして、トリシャは苦笑した。
「ヴェールを、作って欲しいの」
「ヴェールを?本気なの、サラ?」
訝しげに寄せられた眉根。
ヴェールと言えば、ドレスに負けず劣らずの華やかさ。
端を小さな天使達が摘んで、花嫁を手伝うのだ。
思い浮かべただけでもうっとりとするものを、
彼女に作って欲しいと言うのだから、さすがのトリシャも面食らってしまった。
そんな大役、果たして務まるだろうか。
慌ててカードの日付を確認する。
式まで5ヶ月。
考えてみるが、朧げ過ぎて完成までの予想すら出来ない。
「…やっぱり、難しいかしら。でもね、どうしてもトリシャにお願いしたいの」
「それは…だけど、あの」
懇願するサラが、トリシャには不思議だった。
常ならば、母のドレスやヴェールを譲って貰う。
母が健在ならば、トリシャとてその例外では無かったろう。
それを感じ取ったのか、サラは大げさに頬を膨らませてみせた。
「あら、駄目よ。母は絶対に私には譲らないわ。あのヒト、父との想い出を仕舞い込んでおきたいのよ。普段だって、勿体無いって言って滅多に馴初めも話してくれないのだから」
どうやら本当なのだろう。
腕を組んで憤慨するサラに、トリシャは噴出した。
「可愛いお母様ね」
えぇ全くね、サラは眉尻を下げて深々と溜息を吐いた。
「だからね、私は私だけのヴェールが欲しいの。でも、娘が生まれたら私はその子に譲るわ」
「散々自慢した後で?」
冗談めかしてトリシャが訊ねる。
大仰に頷くと、サラは片目を瞑って口の端を吊り上げた。
「勿論。それにね」
サラは強く吹いた風で乱れたトリシャの栗色の髪を指先で直し、にこりと微笑った。
トリシャはいつも優しい香りがする。
母を思い出すような、優しい香り。
いつだってほっとする、あたたかな心地を憶えた。



「トリシャの中で、女の子の一番は私だって思えるじゃない」



サラはトリシャが好きだった。
トリシャに祝って貰えるのなら、これほど嬉しいことはない。
想いが痛いほど伝わって、トリシャはくしゃりと顔を歪めた。
泣き笑いの顔になり、目の端に滲んでしまった涙を拭う。
「…倖せに、なってね」
「うん」
「サラ、私も大好きよ」
ことり、と洗濯籠が足元に転がる。
風が洗い立てのシーツをふわりと弧を描いて靡かせた。
嬉しい。
誰かの倖せが、こんなにも。



「おめでとう」



そうしてトリシャは、3度めの寿ぎを唇に乗せた。




くるりと巻いた栗色の髪を押さえ、花を模したイヤリングで耳を飾る。
2つに結って纏め上げた箇所にも同じ花の髪飾り。
胸元のネックレスの位置を直して、透かしのショールを羽織る。
姿見の前でおかしい所が無いか改めて確認した。
「…ちょっと、可愛らしくし過ぎたかしら」
淡いパープルの膝丈ドレスがふわりと靡く。
壁に掛けられた時計を見上げ、いけない、とバッグを掴んで部屋を出た。
階段を降りると、父の部屋の扉をノックする。
「父さん、準備出来た?結婚式に遅れては申し訳無いわ」
ノックした後に忙しなく顔を出した娘に、彼は苦笑する。
着慣れないスーツを纏い、車椅子にかけていた彼はゆっくりと車輪を動かした。
「ヴェールは間に合ったようだね」
ほんのり化粧をしたトリシャは、ぽっと頬紅に負けないくらい顔を朱に染める。
出来るまで誰にも見せずに、
出来たら出来たで朝一番に花嫁の元へと持っていってしまったヴェール。
昨日の夜まで懸命に拵えていたものを、とうとう彼は目にすることが無かった。
彼女に言わせれば、当日までの楽しみだそうなのだが、
やはり一目くらいは見たかった。
「生きてきた中で1番の自信作よ」
膝掛けで彼の足を覆う。
背後に回り、車椅子を押して外に出た。
晴れやかな良い天気だ。
真っ蒼なblue sky、サラの瞳と同じ色だ。
この村は小さい。
結婚式ともなれば、村中総出での祝いとなる。
こじんまりとした教会には、まばらにヒトが集まり始めていた。
「おや、トリシャ。エルリックさんも今日はお加減が良さそうだ」
「お前さんとこの栄養たっぷりの野菜を食べているからね」
「ははっ、嬉しいこと言ってくれるじゃないか」
「今日和、おば様。こんな日に式を挙げられるだなんて、ユーリは倖せ者ね」
見織った顔
――織らない顔など居るはずもないが――を見つけると、
トリシャは軽く手を上げて声をかける。
風で歪んだ髪飾りを直しながら、彼女はトリシャにそう、と嬉しそうに語気を強くした。
「しかも花嫁はあのサラだよ。こんなに心強いことは無いね」
「えぇ、本当に。頼もしいお医者様ばかりで、リゼンブールも安泰ね」
「全くだよ。まだサラにもユーリにも会っていないんだろう?お父さんには私が付いているから顔を見せておいで」
「でも」
「行っておいで、トリシャ。皆と会うのは久し振りだからね。四方山話にでも花を咲かせているよ」
彼らは、渋るトリシャの背を押して、教会の中へと送り出した。
礼拝堂の脇の細い廊下へ出ると、幾部屋かの扉が並んでいる。
その内のひとつの扉の前に立ち、軽くノックしてみた。
「サラ、私」
控え目に声をかけると、中へ入る様に促された。
暫く迷っていたトリシャだったが、思い切って扉を押しやる。
ヴェールがドレスに合っていなかったらどうしよう。
サラに映えなかったらどうしよう。
明るい所では初めて見る自作のヴェールに内心怯えながら、
トリシャはゆっくりと顔をあげた。
「トリシャ、見て」
長い髪を丁寧に結い上げられ、鏤められたパールの髪飾り。
瞳と同じ色のサファイアのピアス。
真白のドレスは、サラの肌の色に溶け込んでしまいそうだ。
床に広がるドレス上に覆い被さるようにして、ヴェールが波を描いていた。
付き添いで手伝っていたシスターは気を遣ったのか、
軽く挨拶をすると部屋から出て行ってしまった。
「あのね、時間が経つにつれて嬉しさが増してくるの。世界でひとつの、世界で1番のヴェールよ。ありがとう、トリシャ」
サラはドレスの裾を摘んでトリシャに歩み寄った。
幾重にも着込んだパニエが動きにくいったら無い。
花嫁は見た目の華やかさとは裏腹に重労働だ。
ぎゅ、と声を失ったままの彼女を抱き締める。
「…良か、った」
「え?」
「喜んで貰えて良かった」
トリシャ慣れない化粧が彼女に付かないように気を付けて抱き締め返す。
音だけのキスを頬に送った。
「似合わなかったらどうしようかと思ったの」
まさか、とサラは目を丸くする。
大小のビーズを連ねて作られた、髪にヴェールを留め置くティアラもトリシャのお手製だ。
引っ掛けないように細心の注意を払いながら、サラはヴェールの裾を掬った。
「こんなに素敵なヴェール、私には勿体無いくらいだわ」
季節の花々が描かれたヴェールの細工には、玄人の職人すら舌を巻くだろう。
そこ彼処に編みこまれたビーズが光を受ける度煌いた。
「おめでとう、サラ」
「ありがとう、トリシャ」
テーブルに立てられたブーケにあしらわれたリボンが風に揺れる。
一瞬、トリシャはそちらに目を奪われた。
「受け取ってね、トリシャの方に投げるから」
その視線を追って、サラはにやりと笑う。
どんなにしおらしく、たおやかな形をしてみても、中身はサラ。
だが快活な笑みも艶やかに映るのが彼女の魅力。
一方トリシャはほとほと困ってしまう。
「私、相手も居ないわ」
未だに恋人のひとりも居ない彼女を、サラは聞き入れない。
一歩も譲ろうとしなかった。
「駄目よ、次はトリシャ」
頑なな彼女に、トリシャはどうして、と尋ねる。
「私達の子どもと幼馴染にするの。幼馴染って腐れ縁みたいじゃない?だったら私達の縁もずっと続くわよ」
良い考えだと頷くサラに、トリシャは呆れて笑い出す。
「悪い親ね」
立っているのに疲れたのか、サラはドレスの裾を踏まないように椅子へと掛ける。
座るのにも一苦労だ。
「男の子と女の子で、あわよく結婚なんてことになったら、私達ほんとの家族になれるわ」
「それも素敵だけど」
「絶対なの。これは譲れないわ」
指を突き付け、もう、と頬を膨らませる。
あまりに普段と変わらないサラに、
トリシャはもう少し緊張しても良いのではないかと危惧したが、
目が泳いだり、落ち着かない所作を見る限り、
やはり緊張しているのだろう。
一先ず安心する。
「今日のトリシャ、とても素敵よ。着飾った姿を見せたいって想うヒトくらい居るでしょう?」
訊かれ、トリシャは返事に窮する。
思い浮かんだものは朧げで曖昧で。



―――見せたいと想う、ヒト…



形を成す前に、彼女はひとつ目を瞬かせ首を振った。
にこりと、迷い無く微笑む。
「居ないわ」
あまりに自然で、不自然で、サラは目を見張る。
憶えた違和感に、そう、とだけ返した。
2言3言交わすと、今度はユーリにも会って来ると言い残し、
トリシャは部屋を後にした。
彼女が去った扉をじっと見つめ、サラは軽く眉根を寄せた。
ひとつ、溜息を吐く。
「相変わらず、嘘が下手ね」
やっぱり次はトリシャじゃなきゃ、呟いて、気付く。
今度は何を諦めようとしているのか。
トリシャの強さは危うく、切なく、哀しい。
トリシャに想い人があることを、サラは当然のように確信していた。




反対棟にある新郎控室の扉を叩いて、トリシャは顔を出した。
「ユーリ、緊張具合は如何なものかしら?」
楽しそうに、からかう口調で顔を見せた彼女に、ユーリは思いっきり顰め面を返した。
当の本人達が緊張していないはずなどないと知っていながら訊くのかと、
口に出さないまでも面持ちは物語っている。
彼の隣に立っていたピナコが呆れて、ユーリの背中を張り飛ばした。
「ほら、しっかりおし!新郎がそんなんじゃ、サラの尻に敷かれてるのが皆にバレるよ!」
「敷かれてない!それが実の息子に対する言い草かっっ」
「私の息子だってんなら、尚のことさね。背筋を伸ばす!」
もう一度、ばしりと彼の背中を叩き、ピナコはトリシャに向き直る。
そうして、今初めて気付いたかのように、柔和な笑みを見せた。
「まぁ、トリシャ。見違えたよ、そうしてるとお母さんそっくりだ」
「あら、だから父さんったら機嫌が良かったのね。いつまで経っても、母さんが一番なんだから」
もう、と頬を膨らませるトリシャに、ピナコは笑う。
タイを整えながら、ユーリが着心地の悪そうに鏡を覗き込んだ。
「サラには会って来たのか?」
髪も触ろうとしたが、止めた方が良いと思ったのか、
直前で手を止めてポケットに突っ込んだ。
「えぇ、今さっき」
落ち着かないのであろう、ユーリは部屋の中で行ったり来たりを繰り返す。
叱る気も失せたのか、もしくは言い続けても聞く耳を彼が持たないのか、
ピナコの叱責が飛ぶことは無かった。
少しすると、皆に顔を出して来ると言って、ピナコは席を外した。
「…ね、ユーリ。コレ似合う?」
不意に、トリシャが訊ねる。
本当に唐突だったが、今に始まったことではない。
彼はまじまじとトリシャを眺め、うん、と頷いた。
「あぁ、似合ってるよ」
「本当?嬉しい」
「じゃ、俺は?」
「うふふ、『馬子にも衣装』」
「…ほんとに容赦無いよな、トリシャは」
がくりと項垂れ、ユーリはやっとのことで椅子に腰を降ろした。
自分でも、もう2度と着たくはないと思っているのだろう。
この辺りは似た者同士だと、トリシャは小さく噴出す。
そうだ、とトリシャはバッグから1枚のハンカチを取り出した。
白く、レースで縁取ったものだった。
「これ、胸ポケットに入れておいて。サラのヴェールとお揃いなの」
落ち込んでいるユーリに構わず、トリシャはそれを手渡す。
「ありがとう、トリシャ」
一瞬驚いた顔を見せたが、微かに頬を紅く染め、彼は嬉しそうに微笑んだ。
何が、かは分からないけれど、少しだけ悔しくなる。
サラをユーリに取られることが?
ユーリをサラに取られることが?
どちらともかもしれないし、どちらでもないかもしれない。
ただ、嬉しいという想いの中にぽつん、とほんのちょっとだけ、
寂しいという想いがあるのは本当だ。
「まだ、言って無かったわよね」
「ん?」
サラには幾度も言ったはずなのに、何故かユーリには1度も伝えてなかった。
タイミングが合わなかったと思ってはいるが、
違う場所に理由はあったのかもしれない。
それにユーリもトリシャも、果てはサラさえも気付いていなかっただけで。



「おめでとう、ユーリ」



昔から見織った仲に、祝いだけを告げるのは何処か気恥ずかしくて、
赤ちゃんが生まれたら最初に抱かせてね、と余計な一言を付け足した。
案の定、顔を真っ赤にした彼に怒鳴られはしたけれど、
トリシャは嬉しくて仕方が無かった。




―――生涯、愛することを誓いますか


静まり返った教会の中、神父の声が木霊する。
神の御許にて誓い合う儀式。
厳かな雰囲気にトリシャもまた静かにそれを見届ける。
ユーリとサラがお互いに是と答えると、
神父は穏やかに微笑み、掌を天に向け両手を軽く上げた。


―――誓いの口付けを


ユーリがぎこちない手付きでトリシャの作ったヴェールを上げる。
サラの化粧栄えした面立ちがゆっくりと綻ぶ花のような錯覚さえ憶えた。
映画のワンシーンのようだった。
壇上のステンドグラスから陽の光が差し込み、2人の上に降り注ぐ。
色とりどりの光源が真白なサラのドレスに縫い付けられた。
軽く触れ合うだけの口付けを交わした2人は、顔を見合わせて微笑んだ。
わぁ、と示し合わせたかのように、拍手と歓声の嵐が巻き起こる。
その光景に、トリシャは逸る鼓動を抑えきれない。
何て素敵なのだろう。
何て倖せなのだろう。
こんなにも美しいものを、どうして今まで織らなかったのだろう。
緩みっ放しの涙腺におかしそうに笑い、トリシャは2人の姿を目に焼き付ける。
目が合えば、彼らは照れたように頬を綻ばせた。




教会の扉が開き、新郎新婦が姿を見せた。
紅く長い絨毯の両脇に、参列者は各々並ぶ。
手には花籠や、可愛らしく彩られたチュールに包まれた米の粒を持ち、
1歩、1歩と歩き出す彼らを待っていた。



鐘が、鳴り響く。



鳥達が一斉に飛び立ち、蒼空に羽ばたいた。
言祝ぎと冷やかしとフラワーシャワーとライスシャワーの中、
2人は嬉しそうにそれを浴びる。
父の車椅子の隣に立ち、トリシャもおめでとう、と口に手を当て、声高に告げた。
「あれは、母さんのヴェールだね」
穏やかに目を細め、
新しい道を歩もうとしている2人を眺める彼は隣のトリシャへとそう、言った。
トリシャは目を丸くして、けれどすぐににっこりとえぇそうよ、と答えた。
「記憶を出来る限り手繰り寄せて、一生懸命作ったわ。もう一度、見たかったの」
彼が、母の纏っていたものを憶えていたことがトリシャには嬉しかった。
もう数十年経とうと言うのに、色褪せぬものがあるのが嬉しかった。
「あの頃を思い出したよ。懐かしいことだ」
在りし日を想い、重ねるようにして彼は翻るヴェールを見つめた。
「皆、此処から始めて行った。私と母さんも。ピナコとロックベルも。ピナコの式はそりゃあ…凄かった」
妙な間を空け、彼は複雑そうな表情を浮かべていた。
何があったのか、などと訊ねずとも何となく想像はついたが、
それを言葉にするまでの勇気は無い。
「でも、綺麗だったのでしょうね」
うっとりと呟くトリシャに、彼は苦笑する。
「あいつも女だったんだと、皆で密かに頷き合ったたものだよ。織れたらコトだったがね」
けれど、人気者で誰からも好かれていた。
彼の言うように、
新郎に激を飛ばすピナコは昔から変わらないのだろう。
トリシャも、ヒトとしてのピナコが好きだった。
四方山話を繰り返していた2人だったが、若い女達の黄色い声に顔を上げる。
どうやらブーケトスが始まるらしい。
サラがくるりと後ろを向き、ブーケを持ち変える。
受け取ったものが次に結婚出来る、
などと言う迷信じみたジンクスを皆が信じているはずもないのだが、
女とは得てしてそのようなものに恋い焦がれるのだろう。
少し離れた場所に居たトリシャは、その場を動くこと無くぼんやりと、
だが楽しそうに眺めていた。
サラがブーケにひとつキスを落とし、両腕を掲げて勢い良く後ろに放る。
手を伸ばしていた少女達の真上を通り過ぎ、
それは予め決まっていたようにトリシャの頭上で影を作った。
受け取るつもりは無かったトリシャだったが、
あ、と声を漏らし反射的に手を伸ばしてしまった。
後ろにあった人影には気付かない。
丁度手の中に納まると同時に、
後ろの人物も恐らく咄嗟だったのだろう、手を伸ばしてそれを支える。
身体を逸らしたトリシャはバランスを崩し、後ろの人物へとぶつかった。
結果、2人で受け取ってしまったブーケ。
その状況が女の子同士ならばさぞかし微笑ましかったろうが、
生憎と今の状況はそうではない。
「っと、ごめんなさい、私ったら…」
慌てて振り返れば、自分よりも幾分高い上背にトリシャは一瞬呆けた。
久し振りに顔を合わせるその人物に、
えぇと、と未だ2人で受け取ったままのブーケに視線を流す。
取り合えず腕を下ろし、じっと花を見つめた。
リボンで括られたブーケを半分に分けて、自分の髪を結っていたリボンで括り直す。
そうして、ひとつを彼へと渡した。
「はい、半分こ」
呆けて静まり返っていたその場に、一斉に笑い声が巻き起こる。
面白可笑しいハプニングと、あまりにもトリシャらしい行動に皆は声を上げて笑った。
何故笑われているのか分からないトリシャは首を傾げる。
「…私、何かおかしなことをしたかしら」
それに答える声は無く、父親と後ろに居た人物の苦笑が目の端に映った。
喧嘩別れしたワケでは無かったが、気まずい別れ方をしてしまった彼を、
トリシャは恐る恐る振り返る。
気付いた彼と視線が合った。



「…久し振りだね、トリシャ」



いつもと変わらない挨拶。
いつもと変わらない笑顔。
トリシャは胸の奥が熱くなるのを感じた。
何故か泣きたくなった気持ちを堪え、こくりと頷く。
「お久し振りです、ホーエンハイムさん」
車椅子に掛けた彼女の父親に気付くと、彼にも挨拶をする。
「今日和、エルリックさん」
「君だったんだね、トリシャの友達と言うのは」
差し出された手を握り、ホーエンハイムは困ったように言葉を濁す。
顔見知りだったのか、とトリシャは思ったが、
ピナコの所に出入りしているのならそれも当然だと思い直す。
そうしてぽつり、とトリシャの父親が呟いた。
変わったな
―――と。
彼の台詞が何を意味したのか、
昔のホーエンハイムを織らないトリシャには分からず仕舞いだ。
恐らくホーエンハイムもまた、
表情を見る限り彼の台詞の意を汲み取ったとは思えない。
分からなかったけれど、訊ねようとはしなかった。
彼はきっと答えてはくれない。




最期まで訊ねることもしないまま、
何も変わらない、いつも通りの晴れ渡った日の朝、彼は息を引き取った。
翌年のことだった。




風が、小さく鳴った気がした。
ピナコは顔を上げて、作業していた手を止めた。
機械鎧の為の工具を作業台に散らかしたまま、玄関へと向かう。
玄関戸のガラスに映った人影に安堵したような、
僅かに困惑したような、曖昧な表情を浮かべた。
「…丁度良かったよ、ホーエンハイム」
扉を押し開け、ピナコはウェーブのかかった長い髪を後ろに跳ね除ける。
彼女の台詞の意味が分からず、彼は首を傾げた。
脇に移動したピナコはホーエンハイムが中に入ると扉をゆっくりと閉めた。
入ってすぐの診療所には、幾人か待ち人がおり、
その奥でユーリが診察をしているのを目の端に映しながら、
空いている椅子に腰を降ろした。
「どういう意味だ」
トランクを開け、ピナコに土産だと幾つかの包みを渡す。
最後に彼は小さな瓶を取り出した。
リボンが巻き付いたそれは、金平糖のようだ。
色とりどりの星が瓶いっぱいに詰まっている。
「ほら、可愛いだろう。トリシャが喜ぶと思って…ピナコ?」
顔を上げたホーエンハイムは、漸く彼女が浮かない顔、
と言うよりも沈んだ面持ちであることに気付く。
いつだったろう、前にも見たことがある顔だった。
彼が考えていると、ピナコはひとつ溜息を零して頭を掻いた。
「…トリシャの親父さんね、亡くなったよ」
あっさりと淡白な響きを持つ音を、ホーエンハイムはぼんやりと聞いていた。
そうして思い出す。
彼女が前にこんな顔をしていたのは、彼女の夫が亡くなったと告げた時だ。
「ホーエンハイム!」
ピナコが大声で彼の名を呼ぶ。
驚いた患者達が何事かと顔をこちらに向けた。
ユーリですら、彼の姿を目で追っていた程だ。
ピナコも見たことが無かったのだろう。
目を見開き、荒々しく扉を開いて診療所を飛び出して行ったホーエンハイムに、
声も無く立ち尽くしていた。




走っても、仕方の無いことだ。
頭では分かっている。
だがそれは理屈。
心は、どうだったろうか。
居ても立っても居られずに走ってきた理由に今更戸惑う。
ホーエンハイムは明かりの灯らない静かな家を見上げ、呼吸を整えた。
手には小瓶を持ったままだ。
しゃらりと金平糖がぶつかる。
「ホーエンハイム、さん?」
控え目にかけられた声にホーエンハイムは振り返った。
あぁやっぱり、と彼女はにこりと普段と変わらない笑みを浮かべる。
少しだけ、痩せた気がする。
黒をベースにしたワンピースを纏っているのは喪に服す為だろうか。
「来ていらしたのですね。どうか、しました?」
何も言わない彼に、彼女は不思議そうに訊ねる。
差していた日傘を閉じ、玄関に向かった。
「お茶、すぐに淹れますね」
ポケットを探り、鍵を取り出す。
だが、それは鍵穴に差し込まれる前に腕ごと掴まれた。
「ホーエンハイムさん?」
不意に掴まれた腕に、トリシャは驚く。
「…土産を」
「お土産?」
彼は言葉を繋がずに、彼女の手に小瓶を押し付けた。
冷たいガラスの感触が掌に広がる。
「まぁ、金平糖」
綺麗と言って、トリシャは微笑った。
光に透かしせば色とりどりの欠片が綺羅綺羅と耀き出す。
礼を告げたが、ホーエンハイムは表情を和らげようとも、言の葉を紡ごうともしない。
険しく、凍りついている。
やはり、今日の彼はおかしい。
「どう…」
「どうかしてるのは、君の方だ」
思ってもみなかった彼の言動に、トリシャは本当に驚いた。
同時に、何のことだろうと目を瞬かせる。
今日は驚いてばかりだ。
栗色の髪が、風を含んでふわりと浮き上がる。
す、とホーエンハイムの手がトリシャの頬に触れた。
無かった。
そこには、何も無かった。
涙の痕も、腫れた瞼も、紅くなった瞳も、何も。



―――トリシャは1度も、泣いていない



ピナコがぽつりと零した言が頭を過ぎる。
一方トリシャは微かに頬を染め、ホーエンハイムの瞳から目を逸らせないでいた。
トリシャは懸命に高鳴る鼓動を堪えた。
織られてはならない、織ってはならない。
この鼓動の意味など、悟ってはならない。
誤魔化そうと、彼の名を呼ぼうとしたが寸前で彼の声に打ち消されてしまった。




「泣きなさい」




短く、はっきりと告げられた言の葉。
トリシャはただ呆然として、ホーエンハイムを見ていた。
彼は今、何と言ったのだろう。
「泣いてしまいなさい」
畳み掛けるように、ホーエンハイムは言う。
「私、泣きたくなん、て…」
そこから先は紡げない。
言いかけた言葉は、ほろりと零れた涙に呑まれてしまった。
ビーズのように零れ落ちる涙。
最初は驚いた顔をしていたトリシャだったが、
その面持ちはだんだんと哀しげに歪められていった。
そうしてそれが、ほんとう。
トリシャがひた隠していたほんとう、のこと。



―――泣いては駄目だと思ったの



渡された小瓶が足元にコトン、と転がる。



―――泣いてしまえば、父さんが居ないのだと思い知らされるから



コルクの蓋が開いて、金平糖が散らばった。



―――私がひとりなのだと、気付きたくなかった



両手で口元を押さえ、嗚咽を殺していた彼女をあたたかいものが包む。
泣き出したトリシャをホーエンハイムは恐る恐るではあったが、そっと抱き締めた。
堪え切れなかった嗚咽が漏れると、
関を切ったようにトリシャは彼の腕の中で声を上げて泣いた。
彼女を宥める手が背中を優しく撫でる。
トリシャ、と小さく彼女の名を呼んだ。



「俺は、君の傍に居ても良いだろうか」



必死に探していた理由など、本当は気付いていたのだ、本当はとっくの昔に。
気付いてはならない、好きになってはならない。
トリシャの決意は脆く、崩れ去った。
そうして、彼の決意もまた。



「貴方が、好きです」



さんざん泣いた後、
トリシャは、たったひとつの我儘を唇に乗せた。




想いが溢れて、零れて、染み渡る。
芳しい恋の華は、とうの昔に咲き誇っていたと言うのに。
鮮やかな華の色から目を逸らしても、
酔ってしまいそうなくらくらする香りは絶えずその身を包んでいたと言うのに。
「…プロポーズだと思って良いのかしら」
落ち着きを取り戻したトリシャは、落ちてきそうな腫れぼったい瞼を押し上げる。
何とも言えない倦怠感に負けて、今にも眠ってしまいそうだ。
泣くのは、疲れる。
居間のソファに凭れ、ふぅ、とひとつ息を吐いた。
今になって、恥ずかしさが込み上げる。
流されて、想いの丈を打ち明けた彼女の頬はみるみる内に紅潮していく。
彼の台詞は曖昧だったけれど信じるに足る言葉だった。
嬉しい。
嬉しい。
嬉しい。
好きだと言ったその時に、
照れたように微笑んでくれた彼を本当に愛しているのだと実感した。
耐えられなくなり目を閉じた所を、ふわりと柔らかな香りが包み込む。
この香りはディンブラね、とゆっくりと瞼を開けた。
「勝手に使わせて貰ったよ」
「ごめんなさい、お客様に」
申し訳無さそうに背後から差し出されたカップを受け取る。
透き通った茜色の紅茶に口をつけた。
(物を口にするのは久し振りだわ)
食欲など忘れていたトリシャは、漸く自分が数日間何も食べていないことを思い出した。
「思っても良いよ」
唐突に、ホーエンハイムが口を開く。
え、と首を傾げそうになったトリシャは、先程の独り言を聞かれていたのだと気付いた。
治まってきていた顔の火照りが戻ってくる。
顔が紅いのを隠すように、トリシャは俯いて紅茶を含む。
「でも、あの」
「籍は入れられないけれど」
そう言うホーエンハイムに、トリシャは思わず顔を上げた。
はっきりと落胆が見て取れ、彼は苦笑した。
そんな表情すら愛おしいと思える自分が可笑しかった。
「と言うより、入れられるべき籍が無いんだ」
彼の言いようが理解出来ずに、トリシャは瞬きを繰り返す。
理解しろと言う方が無理だ。
彼にはそれもよく分かっていた。
「…ずっと、君に黙っていたことがある。いや、君だけじゃない」
ピナコ達にもだ、ホーエンハムは表情を曇らせた。
言葉にしたことが無いだけで、彼女達は織っているのかもしれない。
織っていて敢えて、何も言わないで居てくれるのかもしれない。
ホーエンハイムは自分の手元に視線を落とした。
手の中でほんのりとあたたかい紅茶のカップをトリシャは握り締め、
じっと彼の言葉を待つ。



「俺は、ヒトじゃあない」



化け物なんだよ、と無理矢理に笑う彼にトリシャは唇をゆっくりと動かす。
だが、すぐにくすくすと笑い出し、いともあっさり頷いた。



「なぁんだ、そんなこと」



笑うトリシャは、ほ、と確かに安堵したのだ。
驚いて言葉を無くしたホーエンハイムに、トリシャは笑ったことを詫びた。
「ごめんなさい、私てっきり『実は妻子持ちなんだ』とか言われるのかと」
びくびくして損したわ、と暢気に言い放つ彼女にこそ、
ホーエンハイムは度肝を抜かれた。
信じていない訳では無さそうだ。
信じて、そうした上で簡単に受け入れられてしまったのだ。
本当に、とても簡単に。
「貴方が、良いの」
トリシャはふわりと微笑んだ。



「私、ずっとずっと、貴方の目に映っているものを、織りたかった」



貴方の空は、どんな蒼?



「貴方に近付きたかった」



撫でる風は、どんな香り?



「だから、貴方を引き留めてはならないと思ったの」



歩き続ける貴方を繋ぎ止める枷になりたくなくて、
貴方を繋ぎ止める枷になりたかった。



―――だから、好きになっては駄目だと思ったの



矛盾する想いは、仄かに生まれた心の欠片。
彼を想う、恋心。



切ない夜を幾つも越えた。
嬉しくて眠れない夜はそれ以上。
トリシャは焦がれていた、彼に、彼を彩る世界に。
「ずっと、傍に居られないのは分かっているつもりです。貴方は、そういうヒトだから」
「トリシャ…」
寂しそうに笑うトリシャに、ホーエンハイムは申し訳無さそうに目を伏せる。
否定は出来ない。
ずっと傍に居ると約束することも出来ない。
それはきっと護ることの出来ない約束だ。
彼には彼の、成すべきこと、成さねばならないことがある。
何度目かのだからをトリシャは繰り返した。
だけど、ではなく、だから。



「その時が来たら、心は此処に、置いて行って」



抱き締める腕が無くても良い。



「帰って、来て」



交わす言の葉が遠くても良い。



ただ。




「私は貴方の、帰る場所になりたい」




渡り鳥の宿木に。
羽根を休めるほんの少しの刻に。
穏やかに微笑むトリシャをいつか、強いと感じたことがある。
そのたおやかさを眩しく思ったことがある。
彼もまた、彼女の目に映る世界を見てみたかった。
いつか、同じ世界を見ることが出来るだろうか、と。
叶わぬ夢だと嘲る声に耳を塞いで。



―――君に触れて、赦される日が来るのだろうか



熱いものが込み上げたのは、トリシャでは無かった。
あたたかいものが溢れたのは、トリシャだけでは無かった。
「…いつも」
向かい側のソファに掛けていたホーエンハイムは組んだ両手に顔を埋め、
前のめりに背中を曲げた。
「君に逢う理由ばかり考えていた、言い訳ばかり」
ぎゅ、と一層強く彼の組まれた両手が握り締められる。
「俺は君の傍へ、帰りたかったんだ」
ありがとう、とホーエンハイムは呟いた。



「ありがとう、トリシャ」



彼が流した涙を、トリシャは忘れることが出来なかった。
立ち上がって彼の前に膝を付き、そ、と彼の手に触れた。
顔を上げた彼の額に口付けをひとつ。
涙が滲んだままの両の目元にもひとつずつ。
頬にキスを落としたら、不思議と自然に唇を重ねた。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
少し離れて視線を合わせると、照れ臭さを笑って誤魔化した。
最後にもう一度だけキスをして、こつんと額をくっ付ける。
だが、彼がトリシャの髪に触れた時、
雰囲気をぶち壊すかのように盛大に腹の虫が鳴いた。
どうやら、ホーエンハイムではないようだ。
「忘れていたわ」
トリシャは腹を押さえて、仕方の無さそうに肩を落とした。
「私、お腹が空いていたの」
睦言の後とは思えない、普段通りの彼女らしさに、
ホーエンハイムは堪えきれずに笑い出した。




next