ピナコがいつも咥えている煙管をぽろりと落としたことも、
ユーリとサラが笑顔のまま固まったことも、
考えてみれば当然だったのかもしれない。
それほど突拍子も無いことだった。
トリシャはと言えば、落ち着かない様子で視線を彷徨わせていたのだが、
ホーエンハイムだけはいつも通りに何を考えているのか分からない風に見えた。
「勿論、今すぐじゃあ無いんです。父の喪が明けて、来年くらいにって」
「そりゃ、めでたいが…トリシャ、ほんとに良いのかい?こんな甲斐性なしで。ホーエンハイム、あんたも本気なんだろうね?」
「…ピナコ、お前も大概失礼な奴だな」
「困ったことに、このヒトじゃないと駄目みたいなんです」
「困っているのか、トリシャ」
「困るくらい、どうしようもないほど貴方が好きなんです」
一緒に暮らそうと思ってます、トリシャがはにかんでそう言うと、
固まっていたユーリが我に返って音を立てて席を立った。
その音に驚いたサラもはっと顔を上げた。
「だからって…!」
「そう!そうなの!おめでとう、トリシャ」
言いかけたユーリを遮って、サラはトリシャの手を握り、早口で捲くし立てた。
そうして、次も何かを言おうとしたユーリの言葉を打ち消して、更に言い繋ぐ。
形の良い眉を少しだけ吊り上げ、彼女も立ち上がって夫を睨んだ。
「なぁに、ユーリ。貴方まさかトリシャの倖せが気に入らないなんていうんじゃないでしょうね。トリシャが決めて、トリシャが選んで、トリシャが倖せだと言っているのよ?それを倖せじゃないなんて言う権利が貴方にあると思っていて?良い?トリシャが倖せなら私には何も言うことは無いわ!貴方もそう思うわよね、ユーリ?!」
息を吐く間も無いくらいに一息で紡がれた言の葉に圧倒され、
ユーリはこくこくと頷いた。
確かに、トリシャが倖せそうなのは認める。
認めるのだが、彼には何かが面白くないのだ。
ホーエンハイムを毛嫌いしているのも理由のひとつかもしれない。
だが、それ以外の何かが引っかかる。
例えば、可愛がっていた妹が、
もしくは娘が何処の馬の骨とも知れぬ奴に掻っ攫われるような。
つまりはきっと、寂しいのだ。
慣れ親しんだ者が、自分の織らないヒトになっていくようで、淋しいのだ。
「トリシャが大事で大好きなのは、私だって同じなんだから」
心を読んだように、サラが呆れて腰に手を当てた。
ユーリが苦笑すると、トリシャが肩を震わせて笑い出す。
ホーエンハイムも呆気に取られて、ぽかんと口を開けていた。
「これからは、奥様同士の話も出来るわね」
「えぇ、そうね」
「たまには一緒に食事作って、家族ぐるみで団欒も良いと思わない?ねぇ、お義母さん」
「いつでも大歓迎さ」
「ホーエンハイムさん、トリシャの旦那様なんて貴方ってば果報者よ」
「あぁ、君の言う通りだ」
椅子に掛けているユーリにくるりと振り返り、サラは不適に笑った。
「さぁ、あなた。他に異論があって?」
これでもか、と言うように彼女が両手を広げる。
敵わないことなど、分かりきっていた。
いつだって彼は妻に弱いし、
何よりもロックベル家の女は母を含め、腕っ節も度胸も十分すぎる程なのだ。
ユーリは両手を挙げて、降参する。
「最初から、俺の意見なんて聞くつもり無かっただろう?」
「あなたの意見なんて、意見と呼ばないもの。子ども染みた独占欲なんてみっともないわ」
それにね、とサラは笑いを噛み殺す。



「あなた、最初から反対なんてしていなかったのだもの」



そう言うところを見せたかっただけ。
付け足された言の葉は、ユーリの中にしっくりと納まった。
そうだったのかもしれない。
今まで散々毛嫌いしていた彼に、昔ほど嫌悪感を抱かなくなっていた自分を騙す為に。
ホーエンハイムを包んでいたものが柔らかくなったのはトリシャのお陰で、
トリシャがいつも楽しそうにくるくると表情を変えるようになったのは、
ホーエンハイムの所為だった。
それがただ、悔しかったのかもしれない。
ユーリはホーエンハイムの前に手を差し出した。
「…トリシャを、泣かせるような真似だけはしないで下さい」
真摯な眼差しに、彼は驚いた表情を見せた。
嫌われていたのは知っている。
嫌われるのも道理だと思っていた。
こんな風に、ユーリが歩み寄る日など来ないと思っていた。
父の面影を宿した青年に、ホーエンハイムは苦笑する。
まっすぐな目は、ピナコ譲りでもあるだろう。
「肝に、命じておくよ」
ホーエンハイムは曖昧に返事をすると、ユーリの手を握り返した。
その光景を嬉しそうに眺めていたトリシャの肩がぽん、と叩かれる。
「じゃあ、式の準備もしなきゃね。お料理もたくさん考えなきゃいけないし、今からでも遅いくらいよ」
トリシャ越しに、サラはピナコに同意を求めた。
だが、ピナコはあぁと言葉を濁して、ほんの少し表情に影を落とした。
言いにくそうに、トリシャもサラを仰ぎ見た。
「サラ、あの、ね…式は挙げないつもりなの」
「だろうと、思ったよ」
納得してはいないだろうが、仕方の無さそうに言うピナコを見ていたら、
どうして、などサラには訊けなかった。
ユーリも同じだったに違いない。
訊ねたいのは山々で、けれど訊ねてはいけないことなのだと、直感的に理解した。
サラは努めて明るく、首を振った。
「駄目よ、絶対に式は挙げるの。ただし、私達だけでね。真白なウエディングドレス、今度は私がヴェール、は無理だからブーケを作るわ」
「サラ、だけど」
「駄目よ」
きっぱりとサラは言い放つ。
此方を見ていたユーリと視線がかち合った。
その視線の意味を悟り、彼も頷く。
「そうだな、トリシャには絶対にドレスを着て貰わないと」
「もう、ユーリまで」
慌てて、彼を制しようとするが今度はピナコまでもが口を開いた。
彼女は煙管を咥えて、紫煙をぷかりと燻らせる。
にやり、と口元が歪んだのは気のせいじゃない。
「あぁ、そうだね、そうだった。すっかり忘れていたよ」
彼らの考えていることと、ピナコが思っていることは恐らく同じ。
「内輪だけの結婚式だ。そうそう気張ることはない」
でも、と腑に落ちないトリシャの手に、そっとホーエンハイムが触れた。
不安そうにそちらを見やれば、彼もまた穏やかに微笑んでいるだけだ。
「トリシャ、君は倖せだ。こんなにも愛されている」
これは、諾の意だと受け取っても良いのだろうか。
憧れなかったワケじゃない。
想いを馳せなかったワケじゃない。
けれど、ホーエンハイムが困るだろうとそんな夢は拭い去った。
それに後悔も未練も無かったし、これから共に歩む未来を想えば、苦でも無かった。
なのに。



「良い、の…?」



溢れてくるあたたかい涙を、抑えることは出来なかった。
喜んでくれるヒト達が居る。
祝福してくれるヒト達が居る。
愛し、愛してくれるヒトが居る。
それが、こんなにも。


―――こんなにも、嬉しいだなんて


トリシャは何度も何度も頷いて、ありがとうと繰り返した。




そうと決まってからの準備は慌しいものだった。
サラとピナコが異様に張り切って、
ユーリは押され気味で
――これに至ってはいつものことだったが――
トリシャとホーエンハイムは手伝いらしい手伝いも出来なかった。
それでも日常生活は穏やかで、のんびりと過ぎて行く。
「村の皆にはね、カードくらいで良いと思うの」
「一言添えて?」
「そう、結婚しました、って事後報告」
洗濯物を干しながら、トリシャはシーツを広げていたホーエンハイムを見上げる。
この身長差は卑怯だと常々思う。
彼を見上げるのではなく、逆だったらどんな感じなのだろう、と前に言ったら、
大爆笑されたのを思い出した。
「…駄目、かしら?」
やっぱり薄情者って思われるかしら、とトリシャは思案顔になる。
だが、その心配は無用だとホーエンハイムは確信していた。
幼い頃からの彼女を知っているこの村の人間の誰がそのように思うと言うのか。
家族のように慣れ親しんできた村の人間を蔑ろに出来るほど、
トリシャが器用でないことくらい、誰でも織っている。
止むを得ない事情があったのだろう、と深読みするくらいで、
問い質すような真似はきっとしない。
それがありがたいのはホーエンハイムであるだけで、
トリシャではないことに心を痛める。
だから、身内だけとは言え、トリシャの憧れていた結婚式を挙げることは、
ホーエンハイムにとって嬉しい申し出だった。
彼からそれを提案するのは非道く傲慢にも思えたし、
事実、事情を知るトリシャにはそうだったに違いない。
倖せだと、彼女は笑ってくれたけれど。
「今度、イーストシティにでもカードを探しに行こうか」
不安そうに揺れていたトリシャの目が耀いた。
「うんと可愛らしいのが良いわ、色は白か淡い桃色!」
「トリシャらしい」
「黒だと喪の色でしょう?」
「…また極端だね」
恐らく冗談ではない例えに、ホーエンハイムは破顔する。
あぁでも、と彼は真白なシーツを干し終えると背伸びをした。
「別の国ではね、黒は花嫁の色でもあるんだよ」
「まぁ、どうして?」
「『貴方以外の色には染まりません』って想いを込めて」
驚いたのか、トリシャは目を丸くして瞬かせた。
白を纏うのは、そのヒトの色に染まる為。
黒を纏うのは、そのヒトの色に染められた為。
どちらも同じ。
想う気持ちは、きっと同じ。
「素敵ね」
トリシャはそう言って笑った。




式を挙げようと決めた日のひと月前の昼下がり。
ロックベル家と共に少し遅い簡単な昼食を終え、
片付けも一頻り済ませた後のこと。
ユーリ達も午後の診療まであと30分はある。
「ホーエンハイムさんは?」
「何か、纏めたい研究書があるとか」
先に帰ったわ、と水道の蛇口を止めて、トリシャはエプロンで手を拭いた。
既に彼女の頭の中は夕食の料理をどうするかでいっぱいだ。
パンを焼いて、ポトフでも煮込もうか。
そう言えば、人参をたくさん貰っていた。
擂り下ろしてパンに練り込めば、橙色のパンが出来る。
ヨーグルトにはちみつを入れて、デザートに出すのはどうだろう。
「トリシャ、渡したいものがあるの」
現実に引き戻されたトリシャは、きょとんと首を傾げた。
言うが早いか、サラは奥に引っ込むと小さな可愛らしいブーケを手にして戻ってきた。
「試作品なんだけど、貰ってくれる?」
手渡されたブーケを覗き込み、トリシャは嬉しそうに目を細めた。
「良いの?可愛い…、?」
ふと、鈍くではあったがきらりと光るものに気付く。
何かしら、と指を差し入れてそれを取り出した。
繋いだビーズに括られたそれは
―――…。


「…鍵?」


掲げてみる。
何の変哲も無い鍵だ。
見覚えがあるような気がしないでもないが、
首を傾げたままトリシャはうぅんと唸る。
「サラ、これ…?」
「プレゼント」
にっこりと微笑んだまま、それ以上は言わない。
助けを求めるように、珈琲を飲んでいたユーリを振り返る。
「ねぇ、ユーリ」
「当ててごらん」
まるで、幼い頃のゲームのようだ。
だが、考えても分からない。
ヒントは、無い。
「ピナコさん」
「さぁてねぇ」
どうやら知らないのは自分だけらしい。
これでホーエンハイムまで知っていたらどうしよう、と要らぬ不安まで憶える。
鍵、鍵をかける場所、部屋、窓、扉
―――…。
(とび、ら?)
扉。
鍵のかかった、開かない扉。
開けない、扉。



「…っ!!」



トリシャは息を呑む。
これは連想ゲームだった。
思い出すまでの連想ゲーム。
ずっと、探して、諦めていた答え。
弾かれたように走り出す。
目指すのは自分の家。
今は使われていない部屋。
掃除はまめにしているから、埃は溜まっていないはずだ。
2階ではホーエンハイムが研究書とにらめっこしているに違いなかったが、
音を抑えることも忘れて勢い良く玄関の戸を開いた。
バタバタという忙しない騒音に気付いたのか、ホーエンハイムが階段から顔を出す。
「トリシャ?」
「答え!」
「え?」
がちゃん、と奥の部屋の扉を押しやる。
がらんどうとした部屋には、
生前彼女の父親の使っていたものがひとつとして残っては居なかった。
それはトリシャの望んだこと。
彼の使っていたものを全て燃やしたのは、トリシャが決めたことだった。



―――だって、全部持っていかなきゃ、父さん此処に戻って来ちゃう



煙になって天に昇っていく白い筋は、彼のヒトの引越し道具。
先に逝った、愛する者へと繋がる黄泉路。
トリシャはさよなら、とは言わなかった。
ただ、いってらっしゃい、と呟くだけだった。
帰ってきては駄目よ、とただ、小さく。
「どうしたんだい、トリシャ」
「だから、答えなの!」
「何の?」
「ゲームよ」
彼女の言葉の羅列の意味が分からず、ホーエンハイムはトリシャの行動を見守る。
開かないままのクロゼット。
失くしたはずの鍵。
トリシャは鍵を震える手で差し入れた。
カチャリ、と鍵が引っ掛かり、手応えを感じて時計回りに動かした。



―――縁が無かったのね



いつか、そう言った自分の台詞が甦る。
(違ったのね)
トリシャは歪んで行く視界を懸命に見据えた。
(待っていたのだわ)
ずっと、ずぅっと。
刻を、待っていた。



―――やっと、見つけた



枷は、外れる。




重たい、長く開けられていないことが分かる開錠の振動が掌に残る。
逸る鼓動を抑えながら、ゆっくりと、ゆっくりと腕を引いた。



――――…っ」



つぅ、と一筋、あたたかいものが頬を流れた。



見覚えのあり過ぎるそれは、トリシャが求めて止まないものだ。
幼い頃、母が手入れをしているのを見る度に羨ましくて仕方が無かった。
自分もいつか、こんな白を纏う日が来るのだと夢見た。
未だ見ぬヒトへと想いを馳せた。
ずっと、ずっと、憧れていた。
見事なまでの花嫁衣裳は、トリシャの母の愛し形見。
「こんな悪戯をするのは父さんね。昔からちっとも変わらないんだから。いつも、いつも…っ」
「トリシャ」
笑いながら、堪え切れなかった涙を零すトリシャをホーエンハイムは抱き締める。
鍵を握り締めたまま口元を手で覆い、彼の胸に顔を埋めた。
あたたかな涙が次から次へと止め処なく溢れる。
おめでとう、と父の声が聞こえた気さえした。
「おじ様からの預かり物、やっと渡せたわ」
ひょこりと顔を出したサラはトリシャ達の脇を通り過ぎると、ドレスへと歩み寄る。
付いて来たらしいユーリとピナコも顔を見せた。
「皆、共犯だったのね」
「そういうことさ」
「言っとくけど、主犯はおじさんだからな」
冗談めかして力説するユーリに、トリシャだけでなくピナコも声を上げて笑った。
サラが裾を摘んで考え込む仕草を見せた後、ハンガーごと手に取りトリシャを呼んだ。
「良かった、これならあまり直さずに済みそう」
彼女にドレスを当てて、寸法を確かめる。
身長も、彼女の母親とあまり変わらないようだった。
「でも裾は良いとして、腰回り…あぁ、やっぱりトリシャの方が細いわ。後でサイズ計らせて頂戴ね?この辺りを詰めて、それから」
「サラ、その辺にしておかないと午後の診療が始まるぞ」
苦笑するユーリに、えぇそうね、と頷きながらも手を休めないサラ。
てきぱきと計画を立てて行くサラはとても楽しそうだった。
ピナコもドレスを眺め、柔らかく表情を崩した。
「本当に懐かしい。あの子によく似合っていたよ、これは。トリシャにもきっと似合うだろうさ」
亡き友を想っているのだろうか、その面は寂しさを薄らと滲ませていた。
父の想い、母の想い。
それらに抱かれ、トリシャは本当に幸せだと実感する。
ちらり、と肩越しに振り返れば、
一言も口出ししてこないホーエンハイムが穏やかに微笑んでいた。
心の奥がじわじわと疼く。
言い様の無い切なさと愛しさが胸を締め付ける。
トリシャは居ても立っても居られずに、
サラとピナコの話を途中にして彼へと走り寄った。
勢いに任せてその胸に飛び込む。
虚を疲れたのか、彼は驚いてトリシャを受け止めた。
「どうしたんだい、トリシャ」
「あのね」
微かに頬を染め、トリシャは子どものようにはしゃぐ。
誕生日のプレゼントの箱を開ける時のような、わくわくする感覚。
早く、と何に急かされるでもなく、急く心。



「倖せなの、どうしようもなく倖せ」



―――倖せ過ぎて怖い、けれど



「私の好きなヒトが、貴方で良かった」



にっこりと微笑むと、トリシャはホーエンハイムにぎゅうっと抱き付いた。
眼下に映る栗色の髪にそっと触れて、彼は旋毛に軽くキスを落とす。
「…ありがとう、トリシャ」
倖せなのは、こちらも同じ。
あるがままを受け入れてくれた彼女に、感謝も思慕も恋情も雪のように降り積もる。
ふわり、ふわりと優しく淡く。
けれど確かに芽生えてゆくもの。
今まで織らなかった感情が、ひとつひとつ綻んでいく。
春の花のように、目覚めていく。
「ほらほら、お2人さん!」
ぱんぱん、と手を叩く音が響く。
トリシャとホーエンハイムがそちらを見やれば、
3人が呆れた様子で苦笑を浮かべていた。
「仲が良いのは結構だけれどね、あんまり見せ付けないで欲しいわ」
「サラったら!」
もう、とトリシャが紅い顔で睨めば、ホーエンハイムまで一緒になって笑い出す。
何事も無く過ぎて行く毎日が、あたたかくて、嬉しくて、愛おしかった。




唇を細い筆が緩やかに撫でる。
少しだけ明るい紅は、トリシャの雪のような肌に一層映えた。
栗色の髪もくるりと巻いて、高く結い上げる。
エーデルワイスを模した髪飾りでヴェールを留める。
耳には、ピアスが怖いと言うトリシャの為に、髪飾りと揃いのイヤリングを作った。
「もう目を開けて良いわよ、トリシャ」
サラに言われ、トリシャはゆっくりと瞼を上げた。
見慣れた自室の目の前に置かれた姿見の中には、
見慣れない花嫁が憂いを浮かべて椅子に掛けていた。
思わず頬を触ろうとしたトリシャの手をサラは慌ててがっしと掴む。
「あぁっ駄目よ!お化粧が落ちちゃう!!」
ついでに白が汚れると懇々と宥める彼女に小さく謝った。
落ち着かない。
し慣れないオードトワレも、仄かに染まった頬紅も、
紅い唇も、しゃらりと鳴るアクセサリも。
鏡に映っているのが自分では無いようで、どうにも居心地が悪い。
そわそわと落ち着かない仕草に、サラは苦笑する。
「緊張してるの?」
「してるわ、勿論。でもね、そうなんだけど、そうじゃなくて」
「なくて?」
鏡の中のトリシャへ視線を投げた。
やはり彼女の目は泳いでいて、サラのそれと合わせては逸らされる。
手を何度も組み直し、擦り合わせる。
ドレスの下の脚も、恐らくは忙しなく揺らされていることだろう。
大丈夫よ、と声を掛ければ、トリシャは勢い良く振り返って首を振った。
「全然、大丈夫じゃないわ!だって私、やっぱりこんな格好似合わないし、あのヒトが見て幻滅したらどうしよう?!髪だって上手く纏まらないのよ、私もサラみたいな金髪だったら良かったのに!!でも、サラの作ってくれたブーケはとても素敵よ、ありがとう!」
真っ白なドレスとは反対に、色の強い紅やピンクのガーベラ、ポピー、チューリップ。
可愛らしくリボンで纏められたブーケはサラの力作だ。
そうして、緊張している、と言った彼女の台詞は正しかったらしい。
こんなに切羽詰ったトリシャを見たのは初めてだ。
こんなに口数が多いトリシャを見たのも初めてだ。
うろたえて、取り乱すトリシャなど見たことが無かった。
(愛って偉大なのね…)
しみじみと頷くサラの口元は、思わず緩んでしまう。
簡単に正装したサラの手首のブレスレットが音を奏でる。
軽いノックが聞こえ、返事をすればユーリが顔を覗かせた。
「何を騒いでるんだ、トリシャは」
呆れた調子のユーリにトリシャは噛み付くように吼えた。
「厭ね、騒いでなんかいないわ!」
「…サラ?」
「緊張しているのですって」
訳が分からない彼は、妻へ理由を求める。
サラは肩を竦め、努めて簡潔に答えた。
常の人間が表現する緊張とは少しばかり違うかもしれないが、
普段と違う彼女を見ると、納得出来ないでもない。
トリシャの手が顔に触れないように健闘しているサラに、ユーリは外を指差した。
「母さんの方も準備が出来たみたいだぞ」
窓から外を見やれば、本当ね、と頷く。
ぽん、とトリシャの肩を叩いた。
「ほら、花嫁さん。しっかりして頂戴」
「…やだやだやだぁっっ!頭痛がするから明日にする
―――ッッ!!」
「莫迦なこと言ってないで、覚悟決めなさい!女は度胸!!」
「…そりゃロックベル家の家訓だ」
トリシャにまでそれを当てはめて欲しくないと言うのは、幼馴染としての我儘だろうか。
なまじ肝の据わった女ばかり見てきたユーリには、
トリシャはオアシスのようなものなのかもしれない。
今現在、目の前の彼女が面白い状況になっていたとしても。




深呼吸をして、ユーリが開いてくれた扉から足を踏み出す。
目に飛び込んできた彼の髪とよく似た光に、トリシャは目を細めた。
その先に待つ愛しいヒトに、じわりと奥から熱いものが込み上げてくる。
「泣くのはまだよ」
見透かしたように後ろでヴェールと裾を持ち上げていたサラがくすりと笑う。
ホーエンハイムの傍に居たピナコはトリシャに歩み寄り、その手を取った。
「足元に気をつけてね」
「はい」
「アイツめ、結局あの髭剃らなかったよ」
「幼く見えるから厭なんですって」
1歩、1歩、彼との距離が縮まっていく。
さくり、と足元の草を踏みしめる音すらやけに大きく聞こえる。
トリシャと同じに真っ白なタキシードに身を包んだホーエンハイムは、
先程の彼女と同じように居心地が悪そうだ。
彼の前で立ち止まり、ヴェール越しにそっと見上る。
目が合えば、ホーエンハイムは困ったように微笑んだ。
「似合わなくて厭になるよ」
「いいえ、そんなこと!それに私の方が…っ」
「うん、可愛いね」
大したことではないように、さらりと告げるホーエンハイムに、
トリシャの顔は一瞬で真っ赤に染まる。
そんなこと、とか細い声で俯くトリシャは本当に可愛らしいと思う。
先程までサラ達がどんなに執り成しても動揺しっ放しだったトリシャが、
彼のたった一言で大人しくなったことに少々嫉妬を覚えながら。
「んじゃ、俺が神父役な」
彼らの前で姿勢を正すユーリは、こほん、と咳払いをした。
えぇ?とトリシャがあからさまに胡散臭そうに顔を歪めた。
胡乱げに彼を眺め、大丈夫なのかと暗に語っている。
「何だか神聖さに欠けるわね」
「ごめんなさいユーリ、反論出来ないわ」
「お前ら…っ」
先程までの緊張は何処へやら、
いつもと変わらない応酬に、ホーエンハイムは苦笑して宥め、
ピナコは呆れて溜息を吐いていた。
不意に鳥が羽ばたき、彼らの上に影を作る。
皆、思わずそちらを見やった。
影が落ちた後に目に入ったのは、何処までも澄み渡る蒼。
あたたかな光が満ち溢れ、蒼く茂った草原が広がり、
遠くに羊の群れが見える。
それが、彼らの愛した風景。
「だったら、この村に、この景色に誓うかい?」
ピナコは面白そうに、彼らを振り返る。
答えは、聞かずとも分かっていた。
風が、ヴェールを、裾を翻す。
ふぅわりと弧を描いたヴェールを押さえつけ、空を見上げた後、
こちらを見つめるホーエンハイムと微笑み合う。
差し出された腕に、自分の腕を絡めた。
「誓って下さる?」
「勿論」
ヴェールを持ち上げ、そ、とトリシャの頬に触れる。
彼よりも背の低いトリシャは背伸びをしないと届かない。
ホーエンハイムも少し屈んでトリシャに近付く。




「俺の心は君のものだ、トリシャ」



「だったら、私の心も貴方にあげる」




もう何度も交わしたはずなのに。
触れたぬくもりは、初めてでは無いのに。
そ、と重ねた唇は確かな熱を以って、トリシャの中に刻み付けられる。
唇を離した瞬間が名残惜しい。
ホーエンハイムが抱き締めると、
トリシャはやはり堪え切れずに涙を零して微笑んだ。




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