おかしいと気付いたのはいつだったか。 ホーエンハイムは広げた地図やら本やら研究書やらの上に更に本を広げた。 だが、羊皮紙にペンを走らせるも上の空だ。 仕方なく、必要な文章に付箋を貼り付けるが、 後で見ればとんでもないところに貼り付けていそうな気がする。 片手をインク壺に引っ掛けてしまい、がたりと倒れて中身が机上から床へと滴った。 慌てて立て直すこともせず、ホーエンハイムはぼんやりとその様子を眺める。 適当な紙で拭き取ろうとしたが、汚れは広がるばかりだ。 「参ったな、トリシャに叱られる」 言いながら、けれど心此処にあらずと言った風体で、ホーエンハイムは溜息を吐いた。 そう、おかしいのは彼ではない、トリシャだ。 数日前からではなく、此処数ヶ月。 それとなく様子を窺って来たがやはりおかしい。 具合が悪いのではなさそうなのだが、 貧血気味だったり、食が細かったり、 時折戻しているようなのだが、その後はけろりとしている。 まさか、と思って、それを更に打ち消した。 ―――まさか、そんなこと有り得るはずが 無い、と言い切れるのだろうか。 期待にも似た感情がホーエンハイムの中に生まれる。 罪を犯した身体が老いを忘れ、生きながらえているとは言え、 未だ彼の身体はヒトのものだ。 傷付けば痛みもあるし、食事を摂らなければ腹も減る。 三大欲求と言われる睡眠もその他も当然のようにして。 それでも、彼は信じきれない。 その『まさか』が現実になるなど、思ってもみない。 トリシャがなりたいと望んでいたものを、 叶えてやる力など無いのだと思い、込んでいた。 自分がソレになる日が来るなど、決して訪れないのだと。 世界はこのようなものなのだと思うしかなかった日々が、 今更こんなにも愛おしくなるなど彼は思いもしなかったのだ。 「思っていたより随分単純だったんだなぁ、俺も」 困ったな、とホーエンハイムは顔を両手で覆う。 思い浮かんでいたはずの色々な構築式が次々と形を失っていく。 零れたインクは机の端で滲んだまま、半分ほど乾いてしまった。 もし、彼の予感が現実に成り得ると言うのなら。 その可能性が、ゼロでは無いと言うのなら。 ―――…嬉しい じわり、じわりと心の奥から溢れ来るものが喜びだけでないと織っていた。 愛するもの、大切なものを得たが故の痛みも厭と言う程。 だからこそ、封じた心があった。 だけれども、抑え切れない想いがあった。 恐れ、憤り、切なさが入り混じった感情があったとしても、 彼はそれを嬉しいと思わざるを得なかったのだ。 穏やかな日々が過ぎていた。 例えば、真っ白に翻る洗い立てのシーツだとか、 天気の良い日に干した布団のお日様の匂いだとか、 そんなものにも嬉しくなって、時々左手の薬指に感じる冷たさにも頬が緩んだ。 そんな風にしてすっかり2人が夫婦として村に認められた頃、 トリシャはとびっきりの嬉しいニュースを耳にしたのだった。 「赤ちゃん?」 目を丸く見開いて、トリシャは気恥ずかしげに頬を染めるサラを見つめた。 今はまだぺったんこな腹に自然目が行く。 「あのね、まだユーリには言ってないのだけれど、4ヶ月ですって」 休診日の午後、トリシャとサラは2階のバルコニーでお茶をしていた。 見下ろせば、ピナコがのんびりと煙管を蒸かしている。 急患が入った時の用心の為、ロックベル家が空けられることは無い。 ユーリには買い物を頼んでいた。 見下ろしたトリシャと目が合ったピナコがそれはもう嬉しそうに笑うのだから、 彼女にだけは報告しているのだろうと見当がついた。 「元気な子が生まれると良いわね。おめでとう、サラ」 ありがとう、とサラははにかんだ。 「まだ全然実感が湧かないのよ。理屈で分かっていても、このお腹の中に命が宿っているなんて信じられる?」 言いながらも、嬉しそうなサラにトリシャも嬉しくなる。 紅茶のカップに角砂糖をひとつ落とした。 スプーンでぐるりとかき混ぜるとあっという間に崩れて消える。 「トリシャ、編み物教えてね。私、子どもの帽子とか靴下とか編むの夢だったの」 「サラったら、気が早いわ」 くすくすと笑い、トリシャは紅茶をひとくち流し込んだ。 「…?」 確かに喉を通り、胃にまでそれが流れた感覚を感じたはずだった。 だが、奇妙な違和感を感じ、トリシャは一度カップをソーサに戻す。 「トリシャ?」 トリシャの白い手が胸を摩り、喉を伝う。 彼女の常とは違う様子に気付いたサラは、すぐに真剣な医師の顔に変わる。 無造作にカップをテーブルに置くと、トリシャの隣に駆け寄った。 唐突に口元を押さえ、屈み込んでしまった彼女の背を撫で付け、 焼き菓子が入っていたバスケットを掴む。 中の菓子を全部テーブルにばらまき、敷紙だけにしてトリシャの前に差し出した。 「これに吐いて良いから!」 階下まで走る余裕は無いと踏んだのだろう。 堪えようとしたトリシャだったが、やはり持たなかった。 喉の奥から胃酸が込み上げる。 咳き込むトリシャの背を摩り、サラは怪訝そうな面持ちで彼女の顔を覗き込んだ。 顔が白過ぎる気がするが、貧血の類でも、風邪でも無さそうだった。 「…トリシャ、不躾なことを訊くわ」 戻してしまったものの片付けとうがいの為にキッチンへと降りてきたサラは、 取り合えずトリシャを椅子に掛けさせた。 自分は床にしゃがみ込んで、トリシャを見上げる。 「今月、月経あった?」 もしくは先月でも良い、とサラは訊ねた。 まだ妙な酸っぱさの残る口の中に気持ち悪さを憶える。 「私、元々不順だから無い月もよくあるわ」 顔を顰めて答えるトリシャに、サラは考え込んだ。 ソレは彼女の考えを確定させ得る基準には当てはまらないらしい。 「じゃあ、食事の時に込み上げたりとか」 「それも昔から時々」 「酸っぱいもの食べたくなったり」 「私、レモン大好きよ」 段々と彼女が言わんとしていることを感じ取り、 トリシャは困ったように頬に手を当てた。 「サラが思っているのとは違うわ、多分いつものことよ」 「お前さんの思ってることの方が違うんだろうよ」 ふと、戸口を見やれば、面白そうにこちらを見やるピナコが立っていた。 「ホーエンハイムがね、あんたがあまりにも気にしていないものだから勘違いかもしれないけれどって泣き付いてきたんだ」 くつくつと喉を鳴らしてピナコは笑った。 あの他を全く気にしない男が相談してくるなどよっぽどなんだよ、と付け加える。 「私の見立てでも、トリシャ、お前さんのお腹にも子どもがいると思うがね」 外で煙草を燻らせる彼女の優しさと、その意味と、 そっと腹に触れる女らしさとはかけはなれたあたたかな手。 まさか、とトリシャは呟いた。 信じられないといった表情で、呆然と自分の腹を見下ろす。 「此処、に…?」 触れてみたところで、鼓動を感じるはずもない。 けれど確かに息衝いている命がある。 「私は専門じゃないからね、明日にでも町の産婦人科に行って来ると良い」 ピナコの声を遠くに聞きながら、 トリシャはほろりと目の奥から零れるものが他人事のように思えた。 ―――夢があるの いつか、ホーエンハイムに零した秘め事。 きっと無理なのだと諦めていた、夢。 現実になるなど、思ってもみなかった。 それ程には、少なくともトリシャは自分を分かっていた。 けれど、それでも、トリシャは絶対に夢を叶えたかった。 此処で諦めることなど、出来なかった。 ―――この子のお母さんに、なりたい ほろほろと零れる涙の意味は分かるようで分からなかった。 嬉しさの片隅に、 ほんの少しだけ違う感情があったとしてもそれは赦されて然るべきなのだ。 「トリシャ、あんたは母親になれるんだよ」 「私も一緒にね」 そう言ってサラがぎゅうっと抱き締めると、 トリシャはようやっと穏やかに微笑んだのだった。 ひとりでこっそり町まで出掛ける、などという芸当が、 2人暮らしで尚且つ専業主婦であるトリシャに出来るはずも無かった。 すっかりと夫の蔵書で埋まってしまった書斎の扉を静かにノックする。 だが、声は返ってこない。 研究に没頭するあまり――だが、トリシャには何の研究なのかすら理解出来なかった――、 物音ひとつ耳に届かないことなどざらにあった。 錬金術についてらしいのだが、トリシャにはさっぱりだ。 錬成陣と言うのだろうか、円状の図形に別の記号が組み合され、 色々な注釈が書き込まれていた。 どの言葉ひとつ取ってもそれらが馴染みの無いものであるのは明らかで、 一度真剣に読んでみたが、頭の中がこんがらがってしまってそれきりだ。 トリシャがもう一度ノックしようと腕を上げた時、ようやっと扉は開いた。 欠伸交じりに顔を出したホーエンハイムに、彼女は呆れて口を尖らせる。 ぼさぼさの頭を掻きながら、彼はずり落ちた眼鏡を掛け直した。 「また書斎で眠ったのね」 「…ぅ、ん?あぁ、そういえば」 ホーエンハイムは記憶が途切れているのか、曖昧に返事をする。 「眠る時は寝室で、って何度言えば分かるんです!」 まるで幼子を叱るようなトリシャに、彼は苦笑して謝る。 その場限りであるのは彼女も百も承知だった。 言って聞くようなら、何度も言う必要は何処にも無い。 「どうかしたのかい?」 誤魔化すように、ホーエンハイムはトリシャに訊ねた。 「明日、町に行って来ようと思うの」 だからお留守番をお願いします、と言う彼女をぼんやりと眺め、 彼は生返事をした後、否、と答えた。 「俺も、行こうかな」 「え?」 ホーエンハイムが外に出ることは滅多に無い。 結婚してから此方、大抵家の中に引きこもって、何事かを紙に連ねる日々だ。 最近、物珍しい物体がいつの間にか床に転がっていることがあるが、 それを何かと訊ねることは無かった。 まぁ、あまりに歪過ぎて――トリシャには怪物のオブジェにしか見えなかった――、 訊ねることすら躊躇われたのが実際だ。 たまにの外出も出掛けるの一言でふらりと出て行ったきり夕方まで戻らず、 夕食の時間を見計ったかのように両手いっぱいの蔵書を抱えて帰ってくるのだ。 だからこうして、共に出掛けるというのは本当に久し振りで珍しく、 トリシャが嬉しくないはずなど無かった。 目を輝かせ、彼女は夫を仰ぎ見る。 「本当に?一緒に行ってくれるの?」 是と頷けば、トリシャは嬉しい、と無邪気に微笑んだ。 そうしてまた、不安げに揺れた瞳に、 ずっと彼女を見てきたホーエンハイムが気付かないはずなど無かったのだ。 たたん、たたん、と揺れながら汽車は線路を進む。 向かい合わせに座ったトリシャとホーエンハイムは言葉を交わすこと無く、 何とは無しに窓の外を見ていた。 過ぎて行く蒼も緑も、羊の群れも遠く見えて何だか寂しい。 不意に、トリシャ、と名を呼ばれて、彼女は視線をホーエンハイムへと動かす。 「ところで、今日は何処へ行くんだい?」 え、と間抜けな声を発した後、トリシャは目を瞬かせ、くすくすと笑い出した。 「いやだ、何も分からずに付いて来たの?」 「目的を聞き忘れていたなぁと思って」 のんびりと答える彼に、トリシャは益々笑う。 彼らしいと言えば、彼らしい。 けれど、ホーエンハイムは穏やかに微笑んで目を閉じた。 「なぁ、トリシャ」 返事をして、首を傾げる。 開け放った窓から流れる風が、トリシャの栗色の髪を悪戯に撫でて行った。 気にする様子も無く、彼女は心地良さそうに風を感じて目を細める。 「君は、君が信じるままに歩いていくのが一番似合っていると思うんだ」 「…え?」 「君が転びそうになるんだったら、俺が手を伸ばせば良いだろう?」 彼の言葉は唐突で、曖昧で、時々分からなくなることもあるけれど、 確かにそれらは大切なことを伝えようとしている証に他ならず、 トリシャは一生懸命言の葉を咀嚼して彼の真意を読み取らなければならない。 そうしてそれは、決して苦ではなかった。 例えるならば、読み解いていくパズルのような、クイズのような。 謎解きにも似た彼の台詞は思いもよらなかったもので満ち溢れている。 だが、今は違う。 ひらめきのようにして、すぐに理解する。 トリシャは不安だった。 彼がトリシャを愛しているからこそ、不安だったのだ。 決断を覆すことなど微塵も考えてはいなかったが、哀しませるのは厭だった。 だからトリシャは微かに笑みを湛え、小さく頷くしか出来ない。 「はい、お願いします」 それと、と彼女は伏し目がちに手元を見つめて続けた。 「ありがとう、あなた」 ―――だけど、もう少しだけ 喉元まで出かかった言葉を、トリシャは飲み込む。 ―――私が嘘を吐き続けること、どうか赦して 汽車が一際大きく揺れ、目的地の駅の名が車内に響いた。 ピナコの書いてくれた紹介状を受け取った医師は彼女とは正反対の、 穏やかそうな初老の女性だった。 いくつか簡単な検査を受け、トリシャは逸る鼓動を抑えて結果を待つ。 それでも、隣にホーエンハイムが居てくれるというだけで十分安心出来たし、 心強くもあった。 名前を呼ばれ、トリシャは待合室の席を立つ。 「付き添うよ」 「いいえ、私ひとりで行くわ。あなたは此処で待っていて?」 「折角一緒に来たのに?」 不思議そうに見上げる瞳に、トリシャは思わず息を呑む。 (悟られてはいけない) もしかしたら、彼はもうずっと前から気付いているのかもしれない。 気付いていて、織らない振りをしてくれているのかもしれない。 何度も、何度も、それこそたった今でも考えていたことだ。 だったら尚更のこと、彼女は何でもない風を装わなければならない。 ごめんなさい、と小さく言って微笑んで、トリシャは診療室へと消えて行った。 カルテを眺めて、医師はトリシャに向かってふぅわりと微笑んだ。 「おめでとう、妊娠しているわ」 このヒトは白衣よりもゆったりしたルームドレスにエプロンで、 クッキーやケーキを焼いている方が似合いそうだわ、 などとぼんやり考えていたトリシャはぱちくりと目を瞬かせた。 窓の外から、小鳥の囀りが聞こえてくる。 医師と患者が向かい合って掛ける診療室は小ぢんまりとしていて、 大きな病院とは違ってあたたか味があった。 「不安?」 黙ってしまったトリシャに、彼女は優しく訊ねた。 けれど、彼女はゆっくりと首を振って、医師の言葉を否定した。 不安は無かった。 あるとするのであれば、もっと別の。 トリシャは顔を上げて、彼女を真っ直ぐに見つめた。 「…私の身体は、耐えられるでしょうか」 彼女は笑みを絶やさぬまま、手元のカルテを捲った。 紹介状に添えられた、事細かに書き込まれているカルテ。 目を細めてゆっくりと瞬かせる。 「耐えられるかもしれないし、耐えられないかもしれない」 羽音を立てて、小鳥が枝から飛び立った。 「子どもを宿して産むって、どんなことだと思う?」 「え?」 突然の問い掛けに、トリシャは首を傾げた。 妊娠して、出産する。 それは自然の営みであって、これからも続く連鎖。 動物であろうと、ヒトであろうと同じことだ。 どういうこと、と問われてもどう答えて良いものか分からない。 「答えは簡単。お母さんになるってことよ」 彼女は穏やかな瞳でトリシャに語り続ける。 幼い頃に見た、母の瞳に良く似た色だった。 「貴女が母親になりたいと思わなければ、この子の母親にはなれないわ」 「母親…」 「言い訳をしては駄目なの。子どもは貴女の中に居るのだから、すぐに分かってしまうのよ」 トリシャはまだぺしゃんこな下腹部にそっと手を触れた。 微かな胎動も感じられないそこに、本当に子どもが居るのかすら全く分からない。 「…身体のことを言うのは、言い訳?」 勿論、どんな結果になったとしても、トリシャは子どもを諦める気など無かった。 子を産み、果てたとしても仕方が無いのだと。 ある種の決心をして此処にいるトリシャには、 医師の台詞は青天の霹靂のようなものだった。 「十分に栄養を摂って、適度な運動をして、身体に無理をさせなければきっと大丈夫」 大丈夫、とトリシャは小さく反芻する。 一体、幾度この言葉を繰り返したろう。 一体、幾度この言葉を信じようとしただろう。 その度に挫けて、やっぱり駄目なのだと諦めようとして、でも諦められなくて。 つぅっと、トリシャの頬をあたたかなものが流れた。 どうしてこんなにも、泣き虫になってしまったのだろうか。 それでも増えたのは哀しい涙ではなくて、嬉しい涙。 あたたかな、滴。 彼女は砂糖菓子のようにやわらかく微笑んでトリシャの涙を拭った後、 額に優しいキスを贈った。 「貴女がお母さんなら、この子はきっと倖せね」 彼女に背を押され、トリシャももう1度信じてみようと思う。 そうして、出来得る限り世界に、自分自身に嘘を吐き続けようと決めたのだ。 まるで、鳥の羽と見紛うかのようなふわりとした白いものが、 薄暗くなってしまった灰色の空からとゆっくりゆっくりと舞い降りる。 家々の煙突からは同じように白い煙が立ち上り、 昼間だと言うのに暖かそうな橙色の明かりが薄らと窓から漏れていた。 鳥達は身を寄せ合い、動物達は寝床へと引きこもる。 今はそのような季節。 ちらちらと降り出した雪が一面を銀世界にするには、まだ暫くかかるだろう。 そんな、いつも楽しみにしている初雪が降り出したのにも気付かないくらいに、 トリシャは唸っていた。 唸る、と言うよりも気張っていた。 ストーブに掛けられたやかんから、 ひっきりなしに湯気がしゅんしゅんと音を立てて飛び出している。 部屋は適度に暖かく、 湿度も保たれていて心地良いはずなのに今はそれ所ではない。 左手は付き添っているサラの手をがっちりと握り締めていて、 もう片方の手は寝台に括りつけられた布で固定するように縛られている。 陣痛が始まってからどれくらい経つのか分からないくらいにトリシャには長く感じられた。 何かの例えで、鼻の穴から西瓜を出すような痛さだと訊いたことがあるが、 ハッキリ言ってそんなワケの分からない痛みは想像すら出来なかった。 だからある程度の覚悟はしていても、それは本当にある程度だったワケで、 実際の痛みは比べ物にならない程――何と比べれば良いのかすら判断出来ないが――だった。 気を失ってしまいたいくらいなのだが、 不思議と意識ははっきりしているものらしく、 トリシャはピナコ達に教えられる通りに気合を入れるしかなかった。 「頑張って、トリシャ。もう少しの辛抱よ」 先に出産を終えたサラは、絶対にトリシャの出産の手伝いをするのだと決め付けていた。 それは彼女が子どもを産む前からずっと言っていたことで、 公然としたトリシャとの約束でもあった。 だから今握り締められている手がどんなに痛くても、 数日間跡が残ることになろうともちっとも構わなかったのだ。 目の前をうろうろと行ったり来たりを繰り返すユーリをぼんやり眺めながら、 ホーエンハイムは寝室前の廊下に座り込んでいた。 「落ち着いたらどうだね?」 「どうしたら落ち着いていられると言うん…って何でアンタの方が落ち着いてるんだ」 まるっきり立場が逆になっている珍妙な状況を前に、 のんびりとした口調で彼は笑ってみせる。 「そうでもないんだけどね」 何処が、と呆れた顔をして立ち止まってはみたものの、 ユーリはまた忙しなく足で床をこつこつと踏み鳴らしていた。 「立ち会わなくて良かったのか?」 「ピナコから邪魔だと追い払われそうだ」 「…確かに」 確かにも何も、ユーリの場合はそうだった。 つい最近娘が生まれた時に手伝えることは無いかと問えば、 部屋の外で大人しく待っていろと一喝された記憶はまだ新しい。 しかも、今回はサラまで一緒と言うのだから、その可能性は決して低くは無かった。 男同士で詮無い話を交わしていると、ホーエンハイムがふと唐突に顔を上げた。 しん、と静まり返る空気。 彼らの居る廊下だけでなく、部屋の中も、家中、 外からの音も全て遮断されたかのような不可思議な感覚。 どうしたと訊く前にけたたましい泣き声が響き渡った。 「う、まれた――――!!」 瞬間、バタンと音を立てて扉が開いてサラが飛び出してきた。 最初に目が合ったユーリから身体ごと視線を動かして、 彼の向こう側を覗き見た。 「あなた邪魔!ホーエンハイムさん!生まれたわ、男の子よ!!」 邪魔と言われて少なからずショックを受けるユーリを押しのけ、 サラは呆けていたホーエンハイムの腕を取って部屋の中へと引っ張り込む。 まだ微かに血の匂いの残る部屋の中で、 ようやっと息を吐いたトリシャはホーエンハイムの姿が見えると、 ほっとしたように微笑んだ。 微笑み返すのも忘れ、産湯に浸けられた小さな赤子を見つめて彼は何度か目を瞬かせた。 「…赤ん坊って、本当に赤いんだなぁ」 不意に、ぽつりと漏らされた一言に一同は時間が止まったようにぽかんと言葉を失った。 「……っは」 ぱしゃり、とお湯が撥ねて最初に我に返ったのはやはりピナコだった。 「あっはっはっはっは!ホーエンハイム、アンタ何を言い出すかと思ったら!!」 笑いながらも赤子を取り落とさないのは流石彼女である。 堪えきれずに、サラとユーリも続けて噴出し、とうとうトリシャも笑い出した。 「何か、おかしなことを言ったかな」 「だって、あなたったら」 産湯からあげられた我が子を抱きながら、トリシャはくつくつと肩を揺らして笑う。 そうして、ホーエンハイムはどうしようもなく安堵してしまった。 彼女がこうして笑っていること、我が子が無事に生まれてきたこと、 祈る神を織らないがこの時ばかりは天におわすと言われる神々に感謝した。 ホーエンハイムは赤子ごとトリシャを抱きしめて、小さくありがとう、と囁いた。 生きていてくれて。 笑っていてくれて。 傍に居てくれて。 トリシャはただ、照れたように黙って微笑んでいるだけだったけれど、 言葉では言い表せないほどの感謝を、果たして伝えきれたのだろうか。 ばさり、と真っ白に洗ったシーツを洗濯ばさみで留めて、 青々と広がる空に両手を突き上げる。 のんびりのんびり漂う雲に、 やさしくやさしく頬を撫でる風に、 トリシャはゆうっくりと瞼を下ろす。 もう暫くすれば、汗ばむ季節を迎えなければならない。 洗濯物が乾くのは良いことだが、暑いのはどうにも苦手だ。 冬であれば寒いと言って、愛しいヒトに近付く口実も出来るのに。 いつまでたっても少女のような彼女に、ホーエンハイムはいつもおかしそうに笑う。 倖せ、だった。 相変わらず、彼が何をやっているのか分からずには居たけれど。 理解出来るほど自分の頭脳が優れているとも思えないトリシャは、 自分にしか出来ないことをやろうと思った。 どんなに頑張っても彼の料理は上達しなかったし、 掃除だってトリシャの方が断然勝っている。 ヒトには得手不得手があるもので、それが当然。 彼女が成すことで彼が笑ってくれるのであれば、それ程嬉しいことは無い。 空になった洗濯籠を抱え上げ、家の中へと足を向ける。 扉を開けると、居間にあると思っていた姿が見当たらない。 がらんとした部屋を見回し、首を傾げる。 「あなた?エド?」 夫だけでなく、エドワードと名付けた冬に生まれた息子の姿も。 少なくとも、泣いている声は今に至るまで聞こえなかった。 かたん、と天井から物音がする。 2階を見上げてじっと見つめてみたが、やはりどうやらそこからヒトの居る気配がする。 2階にはホーエンハイムの書斎がある。 何が書かれているのかちんぷんかんぷんな本が並んだ埃っぽい本棚に、 走り書きされたレポート用紙やメモが詰まれた机。 インク壺が乾いていないのだけは奇跡に近い。 長いスカートを指先で摘んで階段を昇りながら、 トリシャはそぉっと書斎の扉に近付いた。 微かに開いた扉の隙間から中を垣間見れば、 見慣れた夫の蹲る背中と、 幼い我が子がちょこんと座っているのが分かった。 (何を、しているのかしら) 息を殺したまま、じっとトリシャは様子を窺う。 パチリ、と青白い光が稲妻のように広がったかと思うと、 何かが、エドワードの前に床から生えるようにして出現した。 何が、と言われると正直分からない。 トリシャの目から見たそれは、歪な、辛うじて丸いものが4つ、 四隅それぞれにくっ付いた、兎も角、何か。 けれど、トリシャには見覚えがあった。 (あれ、って) ええと、と記憶を廻らせ、懸命に辿っていく。 (あの子が生まれる前に、部屋に転がっていたよう、な) 思い当たって思わず頬が緩んだ。 まさか、けれど、やっぱり。 トリシャの中にあたたかいものが広がって行く。 居ても立ってもいられずに、彼女は扉を押し開けてホーエンハイムの背中に飛び付いた。 「…あぁ、びっくりした」 全く驚いていないようにしか見えない彼ののんびりで間の抜けた口調に、 トリシャはころころと笑い出す。 実際驚いていたのはエドワードの方らしく、目をまん丸に見開き、 笑い続けるトリシャを見上げていた。 漸く母親であることを思い出したのか、 顔を綻ばせてたどたどしく小さな手を彼女に向かって伸ばした。 まだまだ言葉にならない音を口にする我が子をトリシャは愛おしげに抱き上げる。 ぎゅっと抱き締めればエドワードは嬉しそうにぺちぺちと彼女の頬に触れた。 「それ」 「うん?」 「エドのおもちゃだったのね」 彼の前に同じように座り込むと、 拾い上げた歪なそれを彼はエドワードの前に差し出した。 「上手く出来たと思うんだけどなぁ」 「ちょっとばかり、子ども向けじゃない気がするわ」 グロテスク、とまでは言わないが、 髑髏や鎖、十字架等が埋め込まれたような何とも悪趣味としか思えないそれを、 彼は車だと言い切った。 「でも」 いつの間にか、彼の手は空っぽになっている。 きゃっきゃとはしゃぐ声が耳元に届いた。 「喜んでるぞ?」 「…そうね」 我が子の将来に一抹の不安を憶え、トリシャは何とも言えない微妙な顔で頷いた。 同時に好きな子でも出来たときに、とんでもないものを選んだりしないようにとも願った。 それは果てしなく真理に近かったのかもしれないが、 今の彼女にそれを知る術など無い――未来であったとしても。 翌年、アルフォンスと名付ける次男が生まれたその時にも、 知る術など何処にも無かったのだ。 そうして、願っても、祈っても、叶わないものがあることを織っていたからこそ、 トリシャは嘘を吐き続けるしかなかった。 |
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