目が覚めて、全て夢であったら良かったのにと、願った。 そうでないのなら、隣でまだ眠っている夫を起こさないように、 トリシャはこっそりと溜息を吐くしかなかったのだ。 「医者がね、足りないらしいの」 いつものお茶の時間に切り出してきたのはサラだった。 初めは何のことだか分からずに、 息子のアルフォンスの口元についたスコーンを取ってやりながら、何処の、と訊ねた。 「イシュヴァールよ」 拭いてやろうと手にしたナプキンを落としそうになって、漸く思い当たった。 アメストリス国軍の兵士の撃った流れ弾がイシュヴァール人の子どもに当り、 じわじわと続いていた諍いが激しいものになったのはつい最近のこと。 諍い、などと言う言葉は生温い。 今現在、事実上の国内紛争が勃発、 イシュヴァール殲滅戦への最終決断が大総統キング・ブラッドレイによって成され、 人間兵器とも呼ばれる国家錬金術師が投入されるのだと先日の新聞に書かれていた。 お陰で此処最近の新聞記事は血生臭い。 「軍医、ってこと?」 「軍になら、優秀な医師様方がごまんと揃っているでしょうね」 「サラ…ねぇ、サラ。まさか」 不安の入り混じった瞳で、トリシャは向かい側に掛けているサラを見つめた。 エドワードとアルフォンス、 そしてウィンリィは各々の親が話している内容が分からないまでも、 その様子が不穏なものになりつつあるのは分かったのだろう。 眉は垂れ下がり、ウィンリィに至っては大きな瞳から涙が零れそうになっている。 サラは持っていたカップをソーサに戻すと、真っ直ぐにトリシャを見据えた。 「トリシャ、私は医者なの」 「織っているわ」 「怪我をしてるヒトが居る、苦しんでいるヒト達が居る」 「えぇ、そうね」 「救える命がひとつでもあるのなら、それが例え戦火の中であったとしても、私は行きたい。いいえ、行かなければならない」 「サラ!」 思わず声を荒げたトリシャは慌てて口元を押さえ、子ども達に笑いかけた。 驚かせてごめんなさい、と謝って、外で遊ぶように促す。 「たくさんのヒトが死んでいる所なのよ?」 「織っているわ」 「…死ぬかも、しれないわ」 「えぇ、そうね」 先程のトリシャと全く同じ答え方をするサラに苛立ちを覚える。 どんなに言ったとしても、もう、彼女が答えを変えないことは雰囲気で読めた。 感じていても、彼女の決定をどうにかして覆したかった。 遠くに感じていた戦争が急に身近に、自分のすぐ隣に死の臭いを纏って主張を始める。 「ウィンリィちゃんだって…!」 「お義母さんにお願いしてる」 「…ユーリも、ピナコさんも、もう…決めてしまっているのね」 顔面蒼白、とはこのことを言うのだろう。 トリシャは全身から力が抜けていくのを感じた。 娘と義母を残し、戦場へと赴く。 兵士とは役割が違うとしても、やはりそこは戦場なのだ。 大丈夫、心配しないで、と肩に手を置かれた時、 トリシャは堪え切れずにその手を跳ね除けて逆に掴んだ。 「サラは置いていかれるヒトの気持ちを織らないのだわ!!」 目を丸くしているサラが、揺らいだ。 悔しくて、悔しくて、涙が零れる。 置いて行かないでと声が枯れるまで叫び続けた所で、 死者が還ることは無い。 母親の時も、父親の時も、トリシャは厭と言うほど思い織っていた。 身を引き裂かれるような哀しみを、厭と言うほど。 どうして、伝わらないのだろう。 どうして、届かないのだろう。 大切な者を失う痛みを、恐怖を、絶望を、どうして。 「〜あ…のねぇ、トリシャ!」 突然、頬に痛みを感じる。 ぱちぱちと目を瞬かせると、怒っているけれど、 何処か可笑しいのを堪えているようなサラが彼女を睨みつけていた。 「死ぬって決め付けないでくれる?」 両頬を抓られて引っ張られていることに気付いたトリシャは、え、と間抜けな顔で呆ける。 「だーかーらー、決まってるワケじゃないでしょ?お分かり?」 「う、あ…はい」 「帰って来るわ、絶対。約束する。この村に私もユーリも生きて帰ってくるから」 無事に、とは言えない。 だからせめて、『生きて』。 サラとて不安が無い訳ではない。 もしかしたら、と考えなかった訳ではない。 だからと言って伸ばされた手を此方から振り解くことは出来ない。 大切な者を失う痛みを思うのは、誰しも同じはずなのだ。 己が保身の為だけに留まるのは、医師としてあってはならないこと。 少なくとも、サラもユーリもそう思っている。 「…ウィンリィね、あぁ見えて結構手が掛かるのよ。一人娘だからって甘やかしたユーリの所為ね。心配だから、きっとすぐに帰って来ちゃう」 子どもをあやすようにぽんぽんと優しくトリシャの頭を撫で、 サラは悪戯っぽくウインクした。 最後の心配だからと言うのは間違いなくユーリに対してなのだろう。 可笑しくなって、トリシャはくすくすと笑い出す。 「心配、させるのは心苦しいけど、でもね、それってトリシャが私達を愛してくれている証拠よね」 トリシャの手を包むように握り締め、嬉しそうにサラは微笑む。 「笑って送り出して、なんて言わない。でも、ほんのちょっとだけ、背中を押して?それだけで私、頑張れるの」 トリシャにはもう、彼女を押し留めることは出来なかった。 彼女には彼女の生きようとする道があって、 貫こうとする意志があって、 それを曲げてしまったら、彼女は彼女でなくなってしまうのだから、 結局、広げられた翼の風切羽を断つことは出来なかったのだ、最初から。 力無く、握られた手を握り返す。 「絶対、ね?」 「絶対」 「帰って来てね?」 「帰って来る」 口を開く前に、サラは身を乗り出してトリシャの額にキスをした。 「約束するわ、可愛いトリシャ」 それが、最期になるなど思いもせずに。 もしかしたら。 もしかしたら。 それらは全て、例え話でしかないのだ。 遊び疲れた子ども達を寝かしつけ、ロックベル家の2階から降りてきたトリシャは、 窓の外、さらに遠い場所が目に入ると、訝しげに眉根を寄せ目を細めた。 「何、かしら」 作業場ではピナコが機械鎧の部品を品定めしながら、 丁寧に組み立てていた。 咥えたままの煙管からは白く細い煙が伸びている。 久し振りに3時のお茶を一緒しようと顔を出していたホーエンハイムも同じように窓の外を見やり、異変に気付いた。 「ピナコ」 「うん?」 振り向いたピナコの目にも映ったはずだった。 建物までは見えないが、黒い煙が立ち上り、己が意思を持ったかのような焔が、 丘の端からちらちらと姿を見せているのが。 一瞬にしてピナコの顔が険しくなる。 方角からして異変が起きているのは駅だろう。 何故と問う暇も無く、診療所兼作業場の扉が叩かれ、荒々しく開かれる。 「ピナコ先生!!」 煤で真っ黒になった男が、同じように真っ黒になった老人を抱え飛び込んできた。 汚れていて判別が付きにくかったが、確かに老人は怪我をしていて、 赤黒い血を破れたシャツの下から覗かせている。 「何があったんだい!」 忙しなく止血をしながら、ピナコは男に訊ねた。 「イシュヴァールの奴らだ!」 「イシュヴァール?何で彼らが」 「織らねぇよ、奴ら駅の至る所に火を点けやがった!!」 椅子に座らせた老人の腕の煤を拭き落とし、消毒液をたっぷりと塗り込んだ。 染みたのか、老人は微かに顔を顰めたがそれだけだった。 幸い傷は大したことはなさそうだ。 汚れた布を受け取り、ホーエンハイムは新しい清潔な布を包帯と一緒にピナコに渡す。 「…イシュ、ヴァール」 褐色の肌に紅い瞳を持つ、イシュヴァラをただひとつの神と崇める信仰深い民族。 彼らとの内乱が始まり、悪化の一途を辿っているのは現在進行形。 軍への怒りや不満が爆発した今、 イシュヴァールの民が国内の何処で暴動を起こしたとて不思議でも何でもない。 リゼンブールからの羊毛の供給は主に軍に向けて行われる。 このような田舎が狙われたのは、掠る程度であろうが軍に関わりがあった所為だろう。 ホーエンハイムの瞳に影が落ちた。 (…あなた?) 押し黙った彼に気を配る余裕も無く、ピナコは矢継ぎ早に問い質す。 「まだ怪我人が?この爺さんだけじゃないだろう」 「あぁ、だからピナコ先生を呼びに来たんだよ」 言われるまでもなく簡単な治療道具を大きなトランクに詰めると、 彼女は音を立てて立ち上がる。 こんな小さな村に医者が何人も居るはずもなく、 よっぽどの大事で無い限りはピナコが全てを請け負っていた。 事実、ピナコの腕は機械鎧技師としてでだけでなく、医師としても確かだ。 「ピナコ、俺も行く」 「じゃあコレを持っとくれ!包帯と、あぁ、消毒液はこれだけで足りるかね!?」 「火はまだ消えていない、急いでくれ!」 目の前で起こっている出来事に、トリシャは付いていけないでいた。 (これは、なに?) 飛び込んできた怪我人と、 忌々しげに吐かれる暴言と、 ツンとする消毒液の臭いに混じった焦げたような異臭と、 それらが全て、壁1枚隔てた向こう側の世界のような感覚だった。 開け放たれたままの扉の向こうには先程よりも規模を増した黒煙が濛々と空へ向かっている。 「トリシャ、子ども達を!」 名前を呼ばれ、ビクリと肩を揺らす。 だが何を言われたのか理解出来ずに、トリシャは呆然とホーエンハイムを見つめた。 「聞こえているのか、トリシャ!!」 大声でもう1度彼から呼ばれて我に返る。 「は、はい!」 トリシャは慌てて再び2階へと駆け上った。 心臓が口から飛び出そうなくらいにどくどくと脈を打っている。 手すりを握る手が震えている。 言い様の無い悪寒が襲ってくる。 怖い。 恐い。 姿の見えない何かが、ゆっくりと足音を立てずに近付いてくる。 トリシャは振り払うようにしてウィンリィの部屋の扉を押し開けた。 静かに開けたつもりだったが、思いの外がちゃりと大きく音が響く。 仲良く3人で眠っていた子ども達の中で、 エドワードが一番に目を擦りながらもぞもぞと起き上がった。 「…おかあさん?」 まだ夢現なのか、ぼんやりと周りを見回しては仕切りに目を擦る。 引っ張られたシーツに気付いて、むずがりながらアルフォンスも目を開けた。 「も、おやつー?」 シーツにごそごそと潜りながら最後まで抵抗を続けていたウィンリィも、 ぼさぼさの頭を撫で付けて欠伸をひとつ零した。 そうして最後に目を覚ましたウィンリィだけが、 開かれたカーテンの向こう側に見えるものに運悪く気付いたようだった。 「ねぇ、あれなぁに?けむり?」 小さな白い手がベランダの先を指差す。 幼い兄弟も肩越しに差された方向を振り返った。 トリシャは幼子達の視界を遮るようにしてベランダへと続くガラス戸へと走り、 力任せにカーテンを一気に引く。 唐突な彼女の様子に、幼子達は不思議そうに首を傾げた。 部屋は薄暗く、トリシャの顔が蒼白なのは子ども達には分からなかったようだった。 だが、俯いたまま顔を上げられない彼女が普通で無いことは感じ取れたのだろう。 ベッドを降りたエドワードはとてとてと裸足で足元に駆け寄り、 不安げに母を見上げた。 「おかあさん?どうしたの?」 「だれかにいじわるされたの?」 「おばさま、何処かいたいの?」 エドワードに倣って心配そうに見上げる子ども達を、 トリシャは膝を折って掻き抱いた。 涙が溢れそうだった。 言葉に出来なかった。 (だめ) 不安だけが大きくなる。 厭な予感だけが、強くなる。 もしかしたら。 もしかしたら。 それらは全て、例え話でしかないのだ。 ただし、それらは全て、現実に成り得るだけの例え話だと言うだけで。 ―――行ってしまう 逃れようの無い確かな予感が脳裏を過ぎり、蟠る。 その日が来ても、笑っていようと決めたはずなのに。 嘘を吐き続けようと決めたはずなのに。 おかあさん、と呼ばれてトリシャは顔を上げた。 「絵本を、読んであげるわ。好きな本を1冊ずつ持っていらっしゃいな」 にっこりと微笑み、子ども達の頭を撫でる。 やっと安心したのか、子ども達は元気いっぱいに頷くと、 ウィンリィの書棚から物色を始めた。 「エド、それだめっ」 「なんだよ、ウィンリィはそっちのおひめさまのほんがいいんだろ」 「そっちもすきなのっ」 「ぼく、こえ、しゅきー」 明かりが点いていないことを思い出して、トリシャは立ち上がる。 電気を点けるその瞬間までに、この情けない顔をどうにかしなくては。 笑わなければ。 子ども達を不安にさせてはならない。 スイッチを押す指先に力が篭る。 分かっていてもどうしようも出来ない気持ちがあることを織っていて、 だからこそトリシャは嘘を吐き続けることを選んだのだ。 選んだ、はずだったのだ。 (だけど、もう) トリシャは力無く項垂れる。 糸が切れてしまったマリオネットのように、崩れ落ちていく決意を目の端に映す。 ―――嘘は、吐けない はっきりと浮かんでしまった、 今まで目を逸らしていた曖昧な想いから逃れることはもう、出来ない。 嘘を吐く為の堤防は、跡形も無く決壊してしまったのだから。 ピナコとホーエンハイムが駅に辿り着いたときには建物全てが紅い焔に包まれ、 消火しようと掛けられている水など、言葉通り焼け石に水だった。 みしりと木材が軋み、あらぬ方向へと倒れる。 立ち込める真っ黒な煙のお陰で呼吸し辛く、近付くことも出来ない状況だった。 「…何てことだ」 眉根をきつく寄せ、ピナコは呆然と呟く。 火事というものを見たことが無い訳ではなかったが、 これはヒトの不注意によって起きたものではない。 悪意や憎しみに駆られ、関係の無い者すら巻き込むことを厭わない感情など、 穏やかなリゼンブールには似つかわしくなかった。 焔から離れているというのに、頬や腕がちりちりと焼ける。 熱い。 バケツ1杯ずつの水などでは追い付かない焔の勢い。 だからと言って、手を休めることも出来ずに村人達は彼らの脇を走り抜ける。 「動ける奴は火を消すのを手伝ってくれ!」 「怪我人を遠ざけろ!」 「ピナコ先生、こっち!」 男も女も関係無く、村を護ろうと必死だった。 お上の都合で降ってきた火の粉など、彼らには微塵ほども関係なかったはずなのに。 「深いね、こりゃ縫合しないと…」 患者の間を走り回っているピナコはそこらの女達にも怒号を浴びせ、 今、可能なだけの応急処置を施していく。 火を消そうと駅に近付いたときに熱気で割れた硝子が飛んできて、 ざっくりと切ったのだと言う男の脚の傷口は確かに深く抉れており、 白い骨が薄らと見えていた。 寄り添っている女が心配そうに、男の手を取って励ましている。 ホーエンハイムは鉛筆を削ぐ為に、 ポケットに入れっぱなしにしていたナイフを取り出すと掌に突き立て、 まるで絵でも描く筆のように走らせた。 「ホーエンハイム!?」 「退いていろ」 ピナコがぎょっと目を剥く。 彼の掌を滴る血が、地面に吸い込まれていった。 ズボンの端で血に塗れた掌を拭い、男の傷口の前に翳す。 ピナコの目に映ったのは掌に傷として描かれた円陣と、 奇妙な記号の入り混じった、確か―――錬成陣と呼ばれるもの。 青白い光が稲妻となって走り、辺り一帯を包み込む。 ほんの一瞬だけの出来事に、その場に居た者は皆、息を呑んだ。 ぱっくりと広がっていた傷口は血が滲む程度になっており、 先程までの痛みはまだ残っていたものの、 大怪我、と呼ばれるものがそこにあったなど微塵も感じさせない。 「次は焔」 応急処置だからと、後できちんと治療して貰うように告げて、 ゆらりと立ち上がったホーエンハイムは燃え盛る駅を見上げた。 「すまないが、1度壊しても良いかな」 誰に訊ねるでもなく、彼は零す。 その場に居た誰かが答えられたのならば、何らかの返事はあっただろうが、 何を問われたのかすら分からずにいる彼らには頷く術など無かった。 それは魔法の、ようだった。 今度は地面にまた見慣れない記号の並んだ円陣を描くと、 先程と同じような青白い光が放たれる。 大地を蛇のように走り抜ける光が駅を囲んだ瞬間、土が盛り上がり嵩を増やしていく。 駅の一番高い場所よりも高くなるとドーム状に全てを覆い、 大きな音を轟かせ、どさりと崩れた。 土を被せられた焔は立ち消え、 駅は骨組みだけを残してぶすぶすと微かに残った焔を燻らせている。 あっと言う間だった。 村人が束になっても手を拱いているしか出来なかった状況を、 たった数分の内にしかもたった1人で解決してしまったのだ。 長い付き合いのピナコですら、目の前で起こったことに言葉を紡げないでいた。 彼が錬金術師だと言うことを織っていても尚、驚くに余りある。 そもそも錬金術などをしょっちゅう目にするでもない片田舎では、 彼が魔術師か何かにしか見えなかっただろう。 ようやっと状況が飲み込めた彼らは、声を上げ、手を取り合って喜んだ。 ホーエンハイムにも賞賛の言葉が浴びせられる。 「何だあれ、どうやったんだ!?」 「ぼうっとして何も出来ないと思ってたのにすごいんだな、あんた!」 「ありがとう!」 村人に取り囲まれ、困惑気味に苦笑するホーエンハイムが遠く思えた。 火が消えても怪我人はいる。 応急処置の手を動かしながら、ピナコにも確かに予感がしていたのだ。 長い付き合いだからこそ分かる、予感が。 自然、表情が厳しくなる。 「ピナコ先生?」 火傷を冷やしていた子どもが、彼女の顔を覗き込んだ。 「どうしたの?怖い顔」 「あぁ、煙で目が痛くてね。もう治まるから大丈夫だよ」 「ほんと?良かった!」 ぼくもね、痛いけど泣かなかったんだよと誇らしげに笑う子どもに微笑を返す胸中で、 ピナコはそっと溜息を漏らした。 これは、転機だ。 日常が、日常でなくなる境目。 もう、泣き顔なんて見たくないと言うのに。 もう、強がるあの子を見たくないと言うのに。 ―――それはあんたも同じはずだろうに 世界は絶えず廻り行き、 変わらずに居てと願うすぐ傍でいつでも、果てなく変わり続けるのだ。 嘘を吐いていたの。 果てなく、途方もない嘘を。 ねぇ、ホーエンハイムさん。 私の懺悔を、聞いてくれますか? 分かっていたことだ、最初から。 だからあの時、好きだという想いすらなかったことにしようとした。 今、此処にある感情はただの我儘でしかない。 彼が、宿木に留まり続ける鳥ではないと言うことくらい、 最初からトリシャには分かってたのだ。 子ども達が寝静まり、遠くから夜鳴き鳥の声が聞こえて来る。 散歩に出かけようと言い出したのはホーエンハイムだった。 何処へ、とは訊ねず、家の戸締りをしっかりとして、ただ、彼の後を付いて行く。 お互いに口を開こうとはしなかった。 白い月明りで大地に落ちた自分の影を眺め、今日は満月だったのだと思い出す。 ふと、ホーエンハイムが立ち止まった。 辺りを見回せば、憶えのある場所。 ―――あそこ、空がとても近いの。リゼンブールを見渡せるのよ いつか2人で一緒に来た場所だった。 月を見上げ、たくさんの珍しい話をして貰った夜に、 次に会う約束を交わしたのだ。 俯かせていた顔を上げ、トリシャは彼の背中をじっと見つめる。 「…なぁ、トリシャ」 こちらを振り向かずに口を開く彼に、彼女ははい、と返事をした。 内心、怯えていたのかもしれない。 声が織らず震えてしまう。 「不思議なものだなぁ」 「え?」 ぽつりと漏らされた声は何とも間延びしたもので、 トリシャは一瞬だけ反応が遅れる。 「ずっと、ね。俺に大切なものなんて出来ないって思っていた」 振り返ったホーエンハイムの表情は穏やかで、 張り詰めていた彼女の想いをゆっくりと解いていく。 雪解け水のように、ゆっくりと。 「大切に想えるようなものが出来るなんて、思ってなかった」 「どうして?」 「怖かったからさ」 彼の答えは簡潔だった。 その感情はトリシャも織っているような気がした。 いつか失われ行くものならば、大切なものなど作らない方が良い。 死に行くと分かっていたから、誰も好きにならず、ひとりで逝こうと。 そうしてまた、失うことも怖かった。 きっと彼が抱いているのは似たような感情に違いない。 「臆病者なんだよ、俺は」 苦笑する彼に、トリシャは小さく首を振る。 「そんなこと、無いわ」 小さな手でホーエンハイムの手を取り、きつく握り締めた。 指先にそっと唇を寄せる。 「だって、あなたは私を愛してくれた。あの子達を愛してくれている」 月明りに照らされたトリシャの表情は柔らかで、 出会った頃より大人びたと言っても少女のようなあどけなさが残っている。 彼女の中身はきっと、あの頃から変わっているようで変わっていないのだろう。 「貴方は自分を化け物だと言うけれど、私の倖せは貴方がくれたものよ」 彼の手を引き、自分の頬を摺り寄せた。 「ヒトはひとりでは倖せになれないの」 あたたかかった。 彼の手は、紛れもなくあたたかかった。 生きているのだと、思い知らしめてくれる。 「あぁ、そうだね、トリシャ」 ホーエンハイムは彼女の肩に手を置いて、そのままふわりと抱き締めた。 シャワーを浴びたばかりのトリシャの髪からは、花の香りが漂う。 彼が彼女の顔を覗き込んだ瞬間、 微笑んでいたはずの顔から、ふっと笑みが消えた。 曇った表情に、ホーエンハイムは首を傾げる。 「トリシャ?」 その呼びかけにトリシャは顔を上げ、けれど眉根は切なげに寄せられている。 今にも涙が零れ落ちそうな潤んだ瞳は、無理矢理に何かを堪えているようだった。 何処か申し訳なさそうに見えるのは気のせいだろうか。 ならば、何に対して? 「…ひとつだけ、貴方に嘘を吐いていたの」 きつく閉じられていた唇から、思い掛けない言の葉が飛び出した。 ホーエンハイムには思い当たることが無く、目を瞬かせるしかない。 結婚してから隠し事を滅多にしなくなった彼女が、 嘘を吐くなど珍しいことだった。 「赦されない嘘よ。ずっと、私はこの世界に嘘を吐いていた」 彼の腕を掴み、震える身体を懸命に支えた。 別れを悟ったその時に、 もう嘘は吐けないと、観念したのだ。 「生きたい」 震える身体で、震える声で、搾り出すように紡がれた言の葉は、 思ってもみないものだった。 彼女が何と言ったのか、意味を理解出来ずに呆けてしまった。 シンプル過ぎて、頭が追い付かなかった。 「生きて、貴方と共に居て、あの子達の成長していく姿を見て、歳を取って行きたかった」 トリシャは続ける。 ホーエンハイムはずっと感じていた違和感をようやっと思い知った。 笑っている彼女の、倖せだと言う彼女の、 何処か白々しさを思わせた違和感に、漸く辿り着いたのだと。 「そんなの無理だと、出来るわけないのだと、ずっと諦めたフリをしてた」 何を思っていたのだろう。 何を感じていたのだろう。 倖せと隣り合わせの死を己が裡に秘め、 その中からいつか自分だけが消えてなくなってしまう恐怖など、 彼女以外の誰が知る由もない。 「仕方が無い、って甘受しているフリをしてた」 仕方が無い、とトリシャはいつも口癖のようにして言っていた。 哀しそうに顔を歪めると困ったように笑って、そんな顔しないでと言うのだ。 決まっていることなのだと。 引き延ばすことは出来ないのだと。 けれど、そうだ。 そうだったのだ。 ホーエンハイムはやっと、彼女の言の葉の意味を織る。 「ほんとは、少しも納得なんてしてなかったのに」 本当に死にたい人間など、居るはずがない。 何かしら思いを残すものがあり、 望むものがあり、願うものがある。 それらを全て捨てて、諦めているのだと言い続けることこそが、 彼女を諦めさせていたに違いないのだ。 「そう言い聞かせていなければ、私は近付いてくる死の臭いに押し潰されてしまいそうだった」 堪え切れなかった涙が、トリシャの頬を流れ落ちる。 「だから、生きたいって私に嘘を吐いて、笑っていたの」 笑っていれば、自分さえ誤魔化せるような気がしていた。 「言えば、皆が傷付くのだと分かっていても、嘘を吐くしかなかった」 ごめんなさい、とトリシャは謝る。 何度も何度も、謝った。 「それが、嘘?」 告白を聞いていたホーエンハイムは、彼女の腕を掴み、 背を屈めて視線の高さを合わせた。 「トリシャ、それは我儘だよ」 びくり、とトリシャの肩が揺れる。 怯える瞳に更に涙が溢れ出した。 「誰もが願う、我儘だ」 揺らいだ視界の向こう側で彼が言った台詞は、トリシャの恐怖心を拭い去った。 良いのだと、願っても良いのだと、嘘を吐き続けて来た彼女への免罪符。 「俺も願っている、我儘だ」 叶うのならば、と彼は付け加える。 「赦して、くれるの?」 「嘘は、赦されて然るべきだろう?」 トリシャは、いつか自分がユーリに言った言葉を思い出す。 同じことを言っているのに、彼が言うと別の言葉に聞こえてならない。 やっと解かれた蟠りが、薄れ、消えて行く。 「…行くのね」 「あぁ、行かなければ」 腰を下ろし、隣で空を見上げている夫にトリシャは肩を寄せた。 そっと肩に回された腕に気を取られている内に、 ホーエンハイムは彼女の耳元で何事かを囁いた。 微かにトリシャの目が見開き、彼を見つめる。 言葉が、見つからない。 「…待っていて、くれるかい?」 「それは、約束?」 「あぁ」 囁かれた声に、トリシャは心が熱くなった。 約束があるのなら、次があるということ。 彼が此処に帰って来るということ。 トリシャはいつか彼に言った。 心は此処に置いて行って、と。 帰る場所になりたい、と。 叶えてくれるのならば、どうか。 「だったら、私も」 額を彼の胸にこつんと当てて、トリシャはほんのりと頬を紅く染めた。 「いってきますと、おかえりなさいを頂戴?そうして」 おずおずとホーエンハイムの瞳を覗き込んだかと思うと、 彼女は軽く腰を浮かせて彼の唇を奪う。 息がかかるほどの至近距離で、トリシャは微笑んだ。 「帰って来たら、また夜空の下でデートをしましょう?」 小首を傾げて強請るトリシャに、ホーエンハイムは我に返り、呆れたように笑った。 「…トリシャは欲張りだなぁ」 「知ってます」 「約束を護らないと、家に入れて貰えなさそうだ」 「当然です」 「じゃあ、頷いておかないと」 「それなら、私も頷いておくわ」 額を寄せて、目を閉じて、口付けを交わして。 この村に、この景色に、誓いましょう。 「ふたりだけの、約束ね」 トリシャはいってらっしゃい、と囁いた。 |
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