身支度を整え、家を出て行くホーエンハイムの後姿は、
深夜と言う時間帯には似つかわしくない。
居間に目を擦りながら顔を出したエドワードは、
彼の後姿の意味が分からないようだった。
母の姿を見つけ、とことこと歩み寄る。
「おかあさぁん、アルがぐずぐずゆってるー」
「あらあら、大変」
きょろきょろと部屋中を見回し、先程の父の背中と不在が繋がったのか、
エドワードはトリシャの寝巻きの裾を引っ張った。
「おとうさん、どっか行ったの?」
「えぇ、少しだけお出かけ」
嘘じゃない。
「いつかえってくる?」
「すぐに帰って来るわ」
これも本当。
「あのね、あのね」
「なぁに?」
トリシャは屈んで、エドワードの手が当てられた口元に耳を寄せた。
ひそひそ声で内緒話をするように、エドワードは楽しそうに耳打ちする。



「まだひみつだよ、おとうさんにねアルといっしょにプレゼントつくったんだ」



すぐに、頷くことは出来なかった。
「よろこんでくれるかなぁ」
息を呑み込むのがやっとで、
震えそうになる唇を噛み締めて、エドワードを抱き締めた。
「勿論よ、絶対喜んでくれるわ」
触れるのが怖いのだと、恐る恐る抱き上げる腕でも、
子らはちゃんと、彼を父親だと認識している。
それを織ろうとしないのは罪だ。
「だから、帰って来たら一緒にお帰りなさいって迎えてあげましょうね」
「うん!」
早く、あのヒトに教えてあげたい。
トリシャはとうとう泣き出したアルフォンスの声に慌てて立ち上がりながら、
エドワードの手を引き、そんなことを思っていた。




天井から騒々しい音が響いて、トリシャは箒を片手に顔を上げた。
予想は付いている。
ひとつ溜息を吐くと、また続けてどさどさと何かが崩れるような音が響いた。
「またやったのね」
エプロンとスカートの裾を掴んで階段を上る。
しっかりとは閉められていない扉を開くと、
中で本に埋もれている小さな黄金色の頭が目に入った。
埃ひとつ見当たらないくらいに掃除したトリシャの自慢の部屋は既に本の海。
「エド、アル!」
ごそごそと這い出してくる幼子2人の前で仁王立ちになると、
トリシャは眉を吊り上げた。
悪戯が見付かったときのようにバツの悪そうな表情を浮かべた子ども達は、
恐る恐る母の顔色を窺う。
「こんなに散らかして!」
「…ごめんなさぁい」
素直に謝る弟のアルフォンスはしょぼんと小さくなっていたが、
兄のエドワードはむすっと口を尖らせて謝る気配すら見せなかった。
「エド?」
「…おれ、わるくないもん」
漸く口を開いたかと思えば、反抗期だろうか、そんな台詞でぷいっと顔を逸らした。
アルフォンスは心配げな視線を兄と母の間で彷徨わせている。
「あいつが」
「え?」
「あいつが居れば、こんなとこに入らなかった!」
大声で叫んだエドワードはトリシャの足元を抜けて、階下へと走って行く。
ぱたぱたと小さな足音が玄関先まで行ったかと思うと、扉の開く音が響いて静かになった。
小さな背中を見送った彼女は困ったように笑い、
置いてけぼりを食らったアルフォンスを見やれば、
よっぽど驚いたのか堪え切れなかった涙がぼろぼろと零れていた。
しゃくりあげるアルフォンスを抱き上げて、トリシャは背中を撫でてやる。
「おっ、にぃ、ちゃ、どっか、いっちゃ、たぁ…ッ」
「ほらほら、泣かないの」
出て行ってしまった息子の行方の見当くらいはすぐに付いたが、
今迎えに行っても意地っ張りなエドワードが素直に頷くとも謝るとも思えない。
ほとぼりが冷めた頃に、アルフォンスと散歩がてら迎えに行こう。
トリシャは散らばってしまった本の山を1冊ずつ拾い始める。
「ねぇ、アル」
広げられた本の中身は、やはり昔見たときと変わらずさっぱり理解出来ない。
記号のたったひとつすら、何を意味しているのか分からない。
それで良いのだと、思っていた。
「貴方達、本当にこれが分かるの?」
「なん、と、なく…っ」
まだ嗚咽交じりの声で答えるアルフォンスを宥めるように抱き締める。
「そっか、分かるんだ」
不思議そうに首を傾げる我が子が、非道く羨ましく思えた。
ホーエンハイムが眺めていた文字の羅列も、記号の形も、
何ひとつトリシャには分からないのに、
幼い彼らには朧げながらも理解出来ている。
嫉妬、だったのだろうか。
「…良いなぁ」
涙が零れるような感覚とは違った。
想いが込み上げて来て、言葉が上手く選べない。



(ずるいなぁ、なんて)



そんなことを思っても仕方が無いのに。
トリシャは草臥れた古い本の背表紙を指先でそっと撫でた。




取り落としそうになった積み木や玩具を腕に抱え、トリシャはそこに立ち尽くした。
ついさっき外に遊びに行ってしまった子ども達が散らかした玩具が、
辛抱しきれずに彼女の腕からひとつ落ちる。
床とぶつかると、乾いた音だけが部屋に響いた。
―――…え…?」
か細い疑問は何とか声になったようだ。
同じようにロックベル家の居間で紙切れを持ったまま立ち尽くすピナコを、
トリシャは凝視する。
軍の紋章の箔押しが見える紙切れは、手紙のようだった。
書かれている文面はタイプライターで打ち込まれた文字で几帳面に並んでおり、
それは非道く事務的な内容に思えた。
事実、そうだった。
「…覚悟は、していたよ」
ちっとも納得していない顔で、ピナコは俯いた。



―――ユーリとサラが…死んだ



淡々と綴られた事後報告書が示していたのは、ロックベル夫妻の戦中での死を報せるもの。
前口上は長々と、ひたすら回りくどく書かれてはいたものの、
死を報せると同時に彼らの行いが、
軍にとってどんなに迷惑を被ったかの苦情がご丁寧に添えられている。
無理矢理に笑おうとしたピナコの手が震えているのに気付いたが、
何を言えるはずも無く、ただ、彼女の言葉を反芻するしかなかった。
「…そんなはず、無いわ」
思い出したように、トリシャは彼女に背を向けて玩具を投げ出された箱に仕舞い始める。
「トリシャ?」
「だって、サラ、言ったのよ。帰って、来るって」
ぼとぼとと玩具箱に納まりきれなかった敷布の上に転がる。



―――絶対、ね?

―――絶対

―――帰って来てね?

―――帰って来る



「約束、したじゃない」




―――約束するわ、可愛いトリシャ




彼女の声は此処に居る誰かへのものではなかった。
此処に居ない、誰かへのものだった。
「すまない、トリシャ」
声を詰まらせた彼女へ、ピナコは静かに口を開く。
「ッ、どうしてピナコさんが謝るの…?悪いのは」
悪いのは。
悪いの、は。
トリシャはその先の台詞を飲み込む。
戦争を起こしたアメストリス軍?
反抗していたイシュヴァール人?
約束を護らなかったユーリとサラ?
彼らを止めなかったピナコ?
それとも、それとも。



「…誰も、悪くなんて、ない」



涙と共に零れた声は、嗚咽混じりで壁に滲んだ。
責めるべきものなど何処にもない。
彼らは選び、貫いた。
そこに善悪などあろうはずもないのだ。




「おかえりなさいを、言いたかったの」




行き場の無い想いをぶつけることも出来ず、トリシャは泣き崩れる。
憶えているのは、ぐらりと傾いだ身体が敷布の上に投げ出されるまで。
遠退く意識がいつもとは勝手が違っていたこと、
痺れて動かない手足が自分のものではないように思えたこと、
そして。
「トリシャ!」
切羽詰ったピナコの声が、最後に、聞こえたこと。




病に気付いたのは、いつだったろう。



「ピナコさん、あのヒトが帰ってきたら伝えてもらえますか」



―――我儘は、長く続かないと織っているから我儘と言うのだわ



「あのヒトに、約束、守れなかったって…」



―――叱られてしまうかも



「先に逝きます、ごめんなさいって…伝えてください」



―――それとも、あの時みたいに泣いてくれる?



いつか訊ねた例えばの話が現実になった瞬間に、
トリシャは結局答えを聞けず仕舞いだったことを思い出す。
哀しんでくれますか、と訊ねたトリシャに、
ホーエンハイムは怒ったように冗談でもそんなことを言うもんじゃない、と返した。
あれは答えではなかった。
けれど今なら、分かる。





―――ごめんなさい、ホーエンハイムさん





泣いて欲しいのではない。
哀しんで欲しいのではない。
トリシャが抱いていた感情はシンプルだ。
彼が、子ども達が、彼女を取り巻く世界の全てが、ただ。




―――愛おしい




約束を、護りたかった。




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