木漏れ日の下で<前編>


真っ暗な世界。
知らないことばかりの、小さな世界。
それでも生きていこうと思えたのは貴方と出会えたから。
貴方が私にとっての光だったの。
ずっと、これからも。


霧矢は裏勝手口の床に座って靴紐を整えた。
「ったく、イキナリ宿直とか引き受けてんじゃねーよ」
「仕方ないだろう、それが仕事なんだから」
悪態を吐く弟を、苦笑しながら見下ろす。
「分かってるよ」
勢いをつけて、一気に立ち上がる霧矢。
兄に振り向き、舌を出す。
「架葉『センセイ』」
わざとらしく『センセイ』をつけて呼ぶ彼に、
宗也は深々と溜め息を吐く。
「霧矢…」
霧矢の兄の職業は医者。
急患があることも珍しくないし、
自分の受け持っている患者の病状が悪化でもしたら、
問答無用で病院に泊まり込むこともあった。
良い医者と言えばそれまでなのだが、
彼の突然は今に始まったことではない。
その度に使いに出される霧矢にとっては良い迷惑であった。
「…あれ?」
ふと歩みを止めて遠くを見やる。
いつも通る病院内の中庭から、大きく外れた場所を歩いているらしいことに気付いた。
「この病院、広スギ」
そう呟くと、彼は踵を返して戻ろうとした。
彼の言う通り、この病院は広く造られており、
中庭などの場所が多いのも、患者の療養の為である。
緑が有るか無いかでは、心の落ち着き用も違うだろう。
「?」
ふと、かすかに聞こえた声に、彼は耳を清ました。
(……声?)
しかし、彼のいる場所は人が全くといって良いほどいない。
幽霊などとは思わなかったが、
どちらにしても誰かがいることを不思議に思い、辺りを見回した。
立ち止まっていても仕方が無いと思ったのか、
声の聞こえる方へと歩き出す。
「あ…」
思わず声を漏らす。
「え?」
3メートルほど進んだ所に、茂みの中に一人の少女がいた。
周りの木よりも一回りも二回りも大きな木の下に、
座り込んでいる。
彼女の傍には、小鳥が数羽いた。
一羽は彼女の手に、一羽は彼女の足元に。
よほど慣れているのだろう。
その鳥たちは逃げ出そうともしなかった。
この病院内で飼われているのかもしれない。
「誰かいるの?」
「あ…、おっ俺、別に怪しい者じゃ…っ」
(これじゃ、自分が怪しい奴だって言ってるようなモンだよ〜っ!!)
内心、泣きながら自分の言ったことに後悔する霧矢。
しかし、彼女の瞳は見上げてはいるがどこか焦点が合っていない。
(男の子?)
相変わらず、少女は困惑気味な表情を浮かべている。
不思議に思い、彼は彼女に近付いた。
「……?」
「あの…誰ですか?」
近付いて来たことが分かったのか、彼女は少々、木に向かって後ずさる。
(もしかして…)
「あ、ごめん!」
彼女が警戒していることに気付き、彼は離れた。
それに驚いて鳥たちが羽ばたき出す。
小さな羽根が空から舞い落ちた。
それを見上げながら、霧矢は再度謝った。
「ごめん、鳥、逃げちゃったな」
「いえ…」
鳥の羽ばたきの音がする方へと、彼女は顔を上げた。
しかし、それは鳥達が飛んでいった方向ではない。
(やっぱりそうだ)
彼は確信した。


(この子、目が見えないんだ)


「架葉先生の弟さんだったんですか」
少女は、安心して微笑んだ。
よっぽど警戒させていたのだと、彼は苦笑する。
彼女の隣へ腰を下ろした。
暑い季節だが、大木のおかげで日陰が出来ており、
よっぽど涼しく感じる。
時折、木漏れ日が眩しく降って来た。
それを感じながら、彼は木に背を預けた。
「架葉霧矢。それが俺の名前」
架葉先生と言っている彼女を見て、
名前の方が分かりやすいだろうと思い、
霧矢で良いと付け加える。
「私は、橘かすみと申します」
その言葉はとても丁寧なものであったが、
彼には全く違和感が感じられなかった。
それというのも、彼女の格好はパジャマではなく、
浴衣だったからだ。
上には羽織を着ている。
洋服でなく、和服を着ている女性は何となく
落ち着いて見える所為だろうか。
微笑んでいる彼女は、歳よりも幾分大人びて見えた。
彼女は15歳だと言った。
普通に学校に行っていれば、高校1年生の歳だ。
しかし、彼女は高校には行っていないと言う。
「元々、病弱でしたし、目が見えないこともあって…」
そう言葉を濁す彼女に、彼は申し訳なさそうに謝った。
「ごめん、無神経で」
「いえ」
慣れているのか、彼女は自分の方こそ悪かったと言う様に、手を振った。
「私、知らないことばかりなんです」
勉強のことではない。
数学とか、生物とか、そういった知識ではなく。
「何も知らないから」
同じ年頃の少女達が知っていること。
感じていること。
何を見て、何を感じて、何を知っているんだろう。
おしゃれをしたり、恋をしたり。
そんなことさえも彼女は知らなかった。
「でもさ」
彼は、彼女を眺めて口を開いた。
頭上ではゆっくりと白い雲が流れて行く。
「見えないからこそ、分かることもあるんじゃないかな」
「え?」
「俺達が知らないこと、知ってるんじゃないかな?」
「貴方達が…知らないこと…?」
よくは分からないけれど、彼は苦笑した。
「だったら、その中で楽しいことを探していけば良いんじゃないかな?かすみちゃんなりにさ」
他の人間と比べて、どうではなくて、彼女自身がどうあるか。
目に見えるものが全てではない。
目に見えるよりも、よっぽど見えることがあるのではないか。
ふと、そう思った。
だったら、目が見える人間の方が盲目だ。
「目が見えないからって、負い目を感じることなんて無いよ」
「でも、私は貴方達とは違います」
淋しそうに、彼女は呟いた。
見えるからそう言えるのだと。
不自由な場所を持っていないから。
「どこが違うの?」
霧矢は不思議そうに言った。
かすみは目を見開く。
彼の声のする方へと顔を上げた。
「君はここにいて、生きている。同じじゃないか」
当然の様に言い放つ彼に、彼女は呆然とする。


「そりゃ、色々不自由な人はいるかもしれない。だけど、同じように生きているんだ」


変わらない。
違わない。
そう言える強さを彼は持っていた。
兄が医者を目指していたこともあり、
彼には偏見の目など持ち合わせてはいなかったのだ。
昔、兄にどうして医者になろうとしているのか聞いたことがある。
『皆、生きていて、生きようとしているんだ。だからだよ』
簡単で、短い言葉ではあった。
何て、単純なんだろう。
聞いた瞬間、思った。
何になりたいか、何をしたいか。
そんなものは理屈を並べるものではなく、
単純で簡単な言葉で良いのだと。
「霧矢さんて、不思議な人ですね」
彼女は笑いながら、そう言った。
霧矢は立ち上がり、彼女を見下ろす。
「そう?」
かすみも立とうとしているのか、
支えを探して手をぱたぱたと動かしていた。
手を差し出して、彼女の手に触れる。
軽く礼を言い、彼女はその手を支えにして立ち上がった。
バランスを崩さないように、背に手を回す。
「今まで会った人の中では、一番不思議な人」
彼に向けられた笑顔は、柔らかく、壊れてしまいそうな印象を受けた。
ザアッと、木の葉が風に揺らされる。
太陽の位置が変わっていることに気付き、彼女に別れを告げて帰ろうとした。
「あ…あのっ!」
木に寄りかかって立っている彼女を振り替える。
彼は、暑い日当たりの良い場所で歩みを止めた。
足元は芝生を抜ければ、硬いアスファルトである。
輻射熱が肌にまとわり付く。
「?」
かすみは、しどろもどろに口を開いた。
「あの…っ、私、誰かとお話したりする機会が少なくて、でも、楽しいこと、たくさん探しますから、だから…っ、えっと」
彼女の言わんとしていることに気付いた彼は、優しく返事をする。
「…迷惑じゃなかったら、また、来ても良いかな?」
その言葉に、彼女は一瞬呆けていたが、我に返ると大きく頷いた。




霧矢が去って、すぐに宗也がやって来た。
キィ、と車椅子の音がする。
それが止まったと同時に、彼の声が聞こえた。
「かすみちゃん」
彼の呼び声に、彼女は顔を上げる。
どうやら、ここへかすみを連れてくるのは宗也の役目の様だ。
彼女の手に触れた芝生が、小さく音を立てた。
「立てる?」
「はい」
少々よろけながらも、彼女は一人で立ち上がった。
車椅子の場所へと、宗也は彼女を導く。
背もたれを支えにして、重心を変えるとゆっくりと腰掛けた。
彼は、彼女が座ったのを確認して、それを押す。
陽は傾いていたが、まだそれほど遅い時間でもない。
ただ、夏とはいえ夕方まで患者を外に放っておく訳には行かない。
早めに、3時近くになると彼は彼女を迎えに行く。
病室に四六時中いるのも気が滅入る。
室内にこもっていることが健康上、好ましくないのだ。
それを配慮しての、中庭の散歩。
散歩と言っても、中庭を歩き回る訳ではないが。
こちら側の中庭は、病院関係者、特に医者や看護婦が使う勝手口への通路があるため、
一般の人間は来ない。
彼女が気兼ねして、外に出ることを拒まないように。
わざと、人気の無い場所を選んだのだった。
他の医者や病院関係者にも事情は説明している為、
彼女が外に出る時間帯は、なるべくこの中庭を通らない様にしている。
誰かがいれば、彼女は他人を恐れるだろう。
気の置けるのは、担当医である彼や担当の看護婦くらいである。
「かすみちゃん、何か良いことでもあった?」
宗谷は、彼女に話しかけた。
「はい」
かすみは嬉しそうに微笑む。
(やっぱり似てる)
宗谷と霧矢の声。
兄弟だからだろうか。
「ね、架葉先生」
「ん?」
俯き加減に、かすみは宗谷に尋ねた。
「明日晴れますか?」
その言葉に、彼は空を見上げる。
ゆっくりと流れる雲について行く様にして、
鳥の群れが飛んで行く。
一瞬、影が出来て、
その後には眩しい陽の光が目に飛び込んで来た。
宗也はわずかに目を細める。
「晴れるよ」
かすみは嬉しそうに口を開く。
「本当に?」
「晴れると、何かあるのかな?」
ポンポンと、彼女の頭を撫でると
かすみは穏やかに微笑んだ。
「良いことがあるんです」
彼女の返答に、彼は一緒に微笑んだ。
楽しそうにしている彼女を見るのも久しぶりだった。




ナースシューズが廊下を擦る音がする。
宗也は、看護婦を連れてかすみの病室へと向かう。
ドアに手をかけ、開くとかすみに加え、もう一人の女性の姿がある。
「おはようございます」
宗也は微笑んで、挨拶した。
かすみの部屋は個室である。
奥のベッドに、上半身だけ起こしたかすみがいる。
傍にいるのは、上品そうな女性だ。
和服を身に纏っており、髪は一つにまとめている。
静かな柄の着物ではあるが、それが余計に彼女の美しさを際立たせる。
「おはようございます、架葉先生」
ゆっくりと言葉を紡ぎだすその唇は、紅に染まっている。
「お母さん、早いですね」
看護婦は微笑いながら、手に持っていた体温計を差し出す。
お母さん。
そう呼ばれたということは、かすみの母親なのだろう。
切れ長の瞳は、かすみには似ていない。
宗也は、かすみの母親―――椿―――に勧められてベッドの脇の椅子に腰掛ける。
「かすみちゃん、霧矢と会ったんだって?」
意味ありげに笑うと、彼は切り出した。
「はい。御会いしました」
頷き、彼女は答えた。
どうやら、かすみは椿に話していたようで、
彼女はいつも通りに、花瓶の花を揃えている。
「どうしてですか?」
「いや」
思い出すようにして、彼は笑いを噛み殺した。
「?」
「アイツがさ、君のこと聞いてたからさ」
「何てですか?」
本当に分かっていないらしく、
彼女は首を傾げる。
看護婦も、クスクスと口に手を当てて笑っていた。
笑い声しか聞こえない彼女は、困惑気味の表情だ。
「今日も来るって言ってたから、本人に聞いてみたら良いよ」
かすみはますます不思議そうな顔をした。




「霧矢さん、架葉先生に私のこと聞いたんですか?」
率直に言ってくるかすみに、霧矢は飲んでいたジュースを吹き出しそうになった。
咽たのか、しきりに咳を繰り返す。
そして、缶が潰れるかと言うほどの力で、それを握り締めた。
(あの野郎…っ!!)
その瞳は殺気に満ちていたが、かすみには見えないのでよく分からない。
「き…霧矢さん?」
おずおずと名を呼ぶかすみ。
はっと我に返り、あははと笑ってごまかした。
「あ〜…ほら、病気のこととか?」
そうですか、と返事をして、彼女はそこで話題を打ち切ってくれた。
(……良かった)
大きく溜め息を吐く。
実際はそんなことを聞いてはいなかった。
もっとも、患者のカルテに書いてあるようなことを、
他人にそう簡単に教えられる訳が無い。
『へ?かすみちゃん?』
『どんな子かな…って』
『…お前にも春が来たかぁ』
『バ…ッ!何言ってんだよ、クソ兄貴!!』
『そーか、そーか』
『人の話を聞け―――ッッ!!』
結局、冷やかされただけでもあった。
思い出しながら、またもや腹が立ってくる。
考えれば分かることだが、彼女は深くは考えなかったようだ。
「それよりもさ、何か楽しいこと見つかった?」
苦しい話の転換である。
さして気にもしなかったのか、彼女は嬉しそうに頷いた。
「はい」
「どんな?」
「今朝方、赤ちゃんの声が聞こえました」
静かな、まだ目の覚めていない病院の中。
けたたましい泣き声が。
彼女はそれが新しい生命の産声だと気付いた。
暗い空の下、朝が来るよりも早く、
光が満ちていく。
とても頼りないけれど、
誰からも祝福されて生まれて来た生命。
「あったかくて、嬉しいって思いました」
霧矢は黙って、彼女の話を聞いている。
でも、と彼女は顔を曇らせた。
「?」
「悲しいこともありました」
「悲しいこと?」
頷き、話を続ける。
「昨日、隣の部屋のおばあちゃんが亡くなったんです」
隣室ということもあり、彼女の話し相手になっていた。
実際は反対だったのかもしれないが。
たくさんのことを教えてもらった。
たくさんのことを話した。
老婆の幼い頃には何があったか。
どんな遊びをしたか。
子どもが何人いて、孫が何人いるか。
皺だらけの手は、かすみに優しく触れてくれた。
「聞こえて来たのは、悲しい声でした」
壁を伝って聞こえてくる泣き声。叫び声。
思わず布団に潜って、耳を塞いだ。
彼女には聞き覚えがあった。
「あの声…知ってます」
「え?」
「母の声と同じです。父が亡くなった時の母の声と」
彼女は思い出すように、話し始めた。
かすみの父は、彼女が幼い頃に亡くなっている。
必死に声を押し殺して泣いていた母。
いつも気丈な母が、父が亡くなった時に、たった一度だけ聞かせた泣き声。
「涙は見えなかったけれど…辛かったのを覚えています」
どんなに頑張っても、自分は父にはなれない。
どんなに大切に思っていたとしても、彼女は父の代わりではない。
しかし、娘として愛してくれている。
分かっているのに。
かすみが入院しているのには、病弱である為と、もうひとつ訳があった。
親戚の非難がましい目から逃れる為だ。
かすみの家は大きく、花道の家元である。
そんな一族の中に、身体障害者がいることが恥ずかしいのだろう。
母はその血筋だが、父は違う。
元々、彼女たちは本家には住んでいなかった。
かすみの両親の結婚は、周囲から反対され、押し切ったものだ。
父が亡くなって、それから戻って来たのだ。
だが、両親の件もあり、かすみに向けられる親戚中の目は冷たかった。
「かすみちゃん?」
はっと顔を上げ、彼女は弱々しく微笑んだ。
そんなかすみに心配そうな表情を向けながらも、
彼は気丈に笑った。
「考えるのは良いことだけど、あんまり考え込むのは疲れるよ」
霧矢は頭のてっぺんを指して、ハゲるから、と冗談を言う。
彼女に見えることはないが、
何となく雰囲気で分かったのか、彼女はおかしそうに笑った。
「…えぇ」
ふ、と彼女の顔が再び曇る。
「私は、母の顔を知りません。母だけじゃない、父の顔も、架葉先生の顔も…。」
光を宿さない瞳が、彼を捕らえる。
「霧矢さんの顔も」
「………」
「だから、恐いのかもしれません」
小さく震える手を、彼女は懸命に胸で握り締めた。
「…誰かが目の前でいなくなったとしても、私には分かりません」
だから。
彼女は小さく呟いた。
本当は、どこにも行って欲しくないのに。
どこかに行ってしまうことさえも気付けない。
呼んで、必ず返事が返ってくるという保証はない。
いつのまにか。
「いつの間にか、知らない間に、一人になるんじゃないか…って」
スッと、霧矢の手が彼女の頬に触れた。
「霧矢さん?」
「ここにいるよ」
彼はさほど大きくない声で彼女に告げた。
彼女の中では、どれほど響いたか知らないけれど。
「俺はどこにも行かない」
声と共に、風が吹き抜ける。
低い、どこか心地よい声に、かすみは微笑んだ。
自分の手を、頬に触れている彼の手にそっと重ねる。
「…約束ですよ、霧矢さん」
その時、霧矢は本気で彼女を護りたいと思った。
偽りは無かったのだ。
暖かな日差しの下で。
まるで、世界にその場所しか存在していないかのように、
静かに、穏やかに時は流れていった。


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