木漏れ陽の下で<後編>



診察の時間。
病室のベッドから離れた場所に、ソファが置いてある。
そこに腰掛けながら、宗也は、椿に話しかけた。
「最近、かすみちゃん明るくなりましたね」
「えぇ」
「?」
気の無い返事に、彼は疑問を持つ。
かすみは、彼女の持って来た花の香りを楽しんでいるようだ。
膝の上に置かれた花々を、手に取っている。
楽しそうに笑う彼女は、年頃の少女とどこも変わらなかった。
「何か、気がかりなことでも?」
「…娘が、他の方と関わりを持つのは良いことだと思います。でも」
「でも?」
「もし、それが壊れてしまった時、あの子が傷付くんじゃないかと」
宗也の前に向かい合う形で、椿は腰掛けた。
ぎゅっと、その手を不安げに握り締める。
「仮に、目が見えるようになったとしても、現実とのギャップについて行けず、結局は泣くことになると思うんです。」
本当に心配しているのだろう。
彼女の瞳は不安げに揺れていた。
それを打ち消すように、無理に笑顔を浮かべる。
「主人がいなくなった今、私がしっかりしなければなりませんのにね」
「お母さん、それは…」
彼が何かを言おうとしたその時、荒々しくドアが開かれて、
看護婦が飛び込んで来た。
「架葉先生っ!306号室の新井さんの容体が急変しました!!」
「分かった、すぐに行く」
話の途中ではあったが、担当患者の容体が変わったとなれば、
そうも言っていられない。
早く、と急かす白衣の天使と一言二言交わして、頷く。
すぐにしなければならない話でもないと判断したのか、
彼は一礼して、病室を出て行った。
(私がしっかりしなければ…)
かすみの病室は見下ろすと、中庭が一望できる部屋だ。
(あれは)
彼女は疲れたのか、一眠りしている。
そんな娘に一瞥を加え、椿は病室を後にした。




「架葉霧矢さん…ですよね?」
そう呼ばれ、霧矢は振り向いた。
いつもの如く、兄に届け物があったのだ。
交換して来たのか、
手には、洗濯物の入った紙袋を持っている。
一階の診察室の並ぶ廊下に不似合いな、和服の似合う女性。
霧矢は思い当たる節が無い為、不思議そうな顔をして返事をした。
「はい、そうです…ケド?」
「申し遅れました、私、かすみの母でございます。いつも娘がご迷惑を…。」
あぁ、と合点が行ったように微笑む彼に、彼女はいきなり頭を下げた。
「?!」
驚いて、霧矢は目を見張る。
「無礼なお願いだとは分かっております。ですが」
「え?」
彼女は静かに頭を上げた。
しかし、顔はまだ俯き加減だ。
「…あの子ともう会わないでやってくれますか?」
突然の申し出に、霧矢は一瞬呆然とする。
やっとのことで口を開いて、彼女に尋ねた。
声が震えているのが分かる。
「どういうことですか?」
「あの子が目の見えない所為で、貴方にご迷惑がかかることがあってはならないと」
「迷惑なんてこと」
反論しようとした彼を真っ直ぐな瞳で制する。
美しいその面は、彼を圧倒するには十分だった。
「貴方が迷惑だと感ぜずとも、周りにはそう思われないことも有ります」
「………」
思わず息を呑む。
「貴方が非難され、傷付くことを、あの子が望むとは思えません。」
凛とした声音。
診察時間も過ぎた静かな廊下に、静かに響く。
薄暗くなる辺りの雰囲気に飲み込まれてしまいそうに。
「お願いします」
下げられた頭に、彼はうろたえた。
彼女がどんなにかすみを愛していて、
心配しているか分かったから。
小さな背中に、大きな何かを背負っていると感じたから。
彼は、受け入れるしかなかった。
「それが」


『約束ですよ』


微笑んで、彼女の倖せを願って。
彼女の声が脳裏をかすめる。
首を振って、それを振り切った。
心の中で、何度も謝りながら。


『霧矢さん』


―――約束、護れなくてごめん


「彼女の為になるのなら」
自分に出来ることならば、どんなことでもしようと。




目を閉じて外の音に聞き入った。
目を閉じていても、開いていても視覚は変わらないが、
いつもよりも良く聞こえる気がした。
「雨…?」
呟いたその声に、椿は薬を差し出しながら答えた。
「えぇ。しばらく降るみたい」
「そう…」
残念そうに、目を開いた。
上半身を起こし、手で体重を支える。
そして、差し出された薬を手探りで受け取った。
コップに入った水は零さない様に、椿が支えられている。
(早く止めば良いのに)
そうしたら。
またあの場所へ行ける。
またあの人に会える。
そんな、彼女の感情を読み取ったかの如く、
椿は口を開く。
「どんなに待っても、霧矢さんはいらっしゃいませんよ」
「……っ!?」
驚いて、彼女はコップを落としそうになった。
咄嗟に椿がその手を支える。


―――


「どう…して…?」
震える声で、言葉を紡ぐ。
持っていた薬が、床にばらまかれた。
カプセルが、音を立てて床に転がる。
椿は答えない。
「…お母様ね…?」
絞り出すように、問いかける。
「お母様が何か言ったのね?!」


―――ガシャンッ!


同時に、コップの割れる音がして、水が飛び散る。
小さな硝子の破片が、光を帯びて水の中へ沈んだ。
波紋を広げていく、床に広がる水は硝子と共に彼女たちの姿を幾重にも映し出す。
かすみは身を乗り出すが、ベッドの端に手をやった為、
危うく滑り落ちそうになる。
慌てて、椿が抱き留める。
「考えてもご覧なさい!目の見えない貴方が普通の人を好きになって、倖せになれるはずが無いでしょう!?」
「どうしてそんなことが言えるの?!お母様はいつもそう!!」
母の手を振り払い、泣き叫ぶ。
彼女の瞳からはとめどなく涙が溢れている。
ぽたぽたと滴り落ちる水は、シーツの中へ吸い込まれていった。
シーツを握る手は、段々と力が入っていく。
「私の倖せなんて考えて下さらない!」
泣きはらした瞳を、真正面に据える。
焦点の合ってない瞳が、彼女を映し出した。
「約束したのよ、どこにも行かないって……っ」


―――約束したのに………


腕を、何かを求めるように伸ばす。
ここにはいない、誰かを求めるように。
だが、虚しくそれは空中を掴み、力無く落ちていった。
「…あ…ぁ…あぁぁぁぁっっっ!!!」


―――どうして?


ベッドの上で蹲り、泣き伏す彼女を、椿は見ていることしか出来なかった。
(これで、良かったのよ)
大きな哀しみを味わうよりは。
これで良かった。
彼女は自分にそう、言い聞かせた。
病室の中、雨の音に混じって彼女の泣き声が響いていく。




数日が過ぎた。
かすみは、母と口をきかないままである。
外に出ることも止め、ろくに食事を取らず、
ただぼうっとベッドに横になっているだけだった。
「かすみちゃん、目が見えるようになるかもしれないよ」
宗也が、朗報を齎した。
アイバンクに登録された人間の網膜が、彼女に回って来たのだ。
しかし、今の彼女にはどうでも良いことであった。
「…そうですか」
彼に背を向けたまま、彼女は起きようともしない。
(今更、目が見えても楽しいことなんて無い)
嬉しいことなんて無い。
彼女は目を閉じた。
倖せがどんなものかは知らない。
けれども、自分が今倖せでないことは分かっていた。
「…見えなくても、見えても、何も…変わりません」
この重苦しい現状は。
「そんなこと言ってると、良いものあげないぞ?」
「良いもの?」
変わらず感情の抑揚の無い声で、かすみは返してくる。
尋ねてはいるが、答えは求めていない。
聞いても、聞かなくても構わない。
そんな返事。
「霧矢からの手紙」
思わず、彼女は上半身を起こした。
「!?」
クスクスと笑う宗也だったが、すぐに顔を曇らせる彼女に困惑した。
「私…手紙なんて読めません。平仮名も知りませんし」
「大丈夫だよ」
優しく、彼女の頭を撫でる。
「ちゃんと読めるようになってるから」
「え?」
「はい、ここで選択して下さい」
宗也は、彼女にクイズの様に話しかけた。
「手術を受けますか?受けませんか?」
かすみは、宗也に渡された手紙をそっと抱きしめる。
「私…」
不安気にふせられていた双眸は、確かな光を持って彼を映した。


「私、手術受けます!」


自分の目で、手紙を読みたいから。
霧矢との繋がりに、ほんの少し触れた気がした。


手術から更に数日が経った。
目を覆うように巻かれた白い包帯は、くるくると外されていく。
長く、彼女の瞳を封印していたそれは、ベッドの上に渦巻いた。
心配そうに、椿と宗也、そして、かすみの叔母――――が見守る。
一人では何となく恐いと言う姉に、付き添って来たのだ。
彼女はかすみを可愛がっていた為、言われずとも来るつもりだった。
ガーゼが外され、宗也はかすみに歩み寄る。
「かすみちゃん、ゆっくり目を開いてごらん」
言われた通りに、彼女はゆっくり、ゆっくりと瞼を上げていく。
恐る恐る開かれる双眸は、段々と光を宿していく。
「架葉…先生?」
ぼんやりと映った人影に、彼女は呼びかける。
完全に開いたその瞳は、はっきりと、彼らをとらえた。
「見え…ます…、見えます!」
「かすみ…っ!」
「姉さん!」
嬉しそうに告げる彼女に、椿達は歓声を上げる。
桜は、後ろから椿の肩を抱いて喜んだ。
かすみは、傍にあるものにゆっくりと視線を動かす。
(これが、私の手。これが私の髪)
かすみは、目の前にいるのが、誰かを認識していった。
(あれがお母様。あれが桜叔母様)
あんな顔をしているんだ。
あんなふうに笑うんだ。
一つ一つ心に刻まれていく。
窓の外に見える蒼空に、彼女は魅入った。
空の色は蒼色だと言われても、どんな色かは知らなかった。
見上げた空は、綺麗な透き通る色。
(あれが、空。あれが、蒼色)
この空の下に、自分はいたのだ。
(誰と?)
彼女は途端に、引き出しから一通の手紙を取り出した。
「かすみ?」
うっすらと涙を浮かべて喜んでいる椿だったが、
彼女の仕種を見て何をやっているのか尋ねる。
「あ……」
そんな彼女の言葉も届いていないのか、
かすみはじっと、手紙を食い入るようにして眺めていた。
(……わざわざ、点字をペンで…?)
『分かるようになってるから。』
宗也の台詞の意味がやっと理解できた。
それに目を通しながら、彼女の頬がほのかに染まっていく。
「!」
かすみはベッドから降りてスリッパを履くと、病室を飛び出した。
手紙が、床に静かに舞い落ちる。
「かすみ!?」


『ヤクソク マモレナクテゴメン』


椿は驚いて彼女の後を追おうとする。
「お母さん」
彼女の動きは宗也によって止められた。


『ホントウハ ズット ソバニ イタカッタ』


困惑した表情を浮かべ、彼女は宗也を見上げる。


『ズット ツタエタイコトガアッタ』


「かすみちゃんだって、もう子どもじゃないんです。独り立ちだって、いつかはしなければなりません」
「ですが!」
「貴方一人が背負っていくのではありません。共に、背負っていくんですよ」
どんな倖せも、どんな苦しみも。
一人じゃない。
夫が亡くなって、一人で躍起になってきたけれど。
ひとりじゃなかった。
娘がいつも傍にいた。
分かっていたはずなのに。
感情だけが先走って、いつの間にか、娘の気持ちさえも踏みにじっていたのかもしれない。
「良いじゃない。姉さんだって、そうだったでしょ?」
桜はウェーブのかかった髪を片手で押さえて苦笑した。
ある程度の事情は聞き知っているようだ。
「周りに反対されて、それでも結婚押し切って駆け落ちまでして」
それでも、そんな彼女が羨ましかったと小さく呟く。
椿は疲れたように、傍にあった椅子に座り込んだ。
「そうね…。かすみも…自分の道を歩んでいくのよね」
そして、小さく微笑むと彼女は顔を上げた。


『キミガ スキデス』


陽の光が、輝きを取り戻すように。




分かる。
どこをどう行けば良いのか。
どうすればあの木漏れ日の下へ行けるのか。
どうすればあの人に辿り着けるのか。
息を切らしながら、彼女は走っていた。
生まれてこの方走ったことなど無いのに。
苦しい胸を押さえて、大きな木の前で彼女は足を止めた。
木の下には、男の子の姿があった。
『誰?』
あの時の様に、尋ねなくとも分かる。
誰がそこにいるのか。
彼女は呼吸を整えて、その木へと近付いた。
「かすみ…ちゃん…?」
驚いて、彼は彼女を見やった。
「目が…?」
答えずとも分かった。
彼女の瞳は真っ直ぐに、彼を映している。
「霧矢、さん」
(この人が霧矢さん)
一度目を閉じて、静かに開く。
(…この人が)
自分が柔らかくなっていくのが分かった。
真っ白になって、たった一つの色に染まっていく。
かすみは、今までで一番綺麗な笑顔を霧矢に向けた。
一番、倖せそうに。
言葉を一つ一つ大切そうに告げた。


「私も…貴方が好きです」


―――私の好きな人




ずっと、傍にいたいと願った。


私の大好きな人。



END

あとがき

ラブストーリーを買いてみましたが、いかがでしたでしょうか。盲目の少女の恋ですね。悲鳴を上げたくなるほどこっ恥ずかしいですな!!(笑)もともと、こういうの書く方が専門です、私。多分、他にも書くと思いますね。これは、漫画にしていたのを小説風に直してみたものです。友人に好評だったんで(笑)。本当か?!