深夜、色に倣うようにしてヒトは深い眠りに落ちる。
だがある者は愛おしい者との逢瀬に酔い痴れ、
またある者は生きる為に奪い、数多の命を手にかける。
夜は善しも悪しきも全てを覆い隠すもの。
隠し切れぬものは光と成って浮かび上がるしかないのだ。
例え、どのような色の光に染まろうとも。
かごめは褥の中で薄らと目を開けて、一瞬顔を顰めた。
もそりと起き出すと、隣に眠る珊瑚を見やる、
よく眠っていて起きる気配は無かったが、
妖かしでも襲ってくれば即座に目が覚めるのだろうと察しが付いた。
未だぬくもりの残る褥を抜け出して荷物を漁った後、かごめはそうっと部屋を抜け出す。
「何処行くんだ」
突然掛けられた声に、彼女は身体の芯から竦み上がった。
例え其れが日頃から慣れ親しんだ声だったとしても、
此んな真夜中に突然聞こえれば悲鳴も上げたくなるというものだ。
腹の底から込み上げそうになった絶叫を如何にか飲み下し、
廊下に続く部屋の外に立っていた少年をねめつける。
「吃驚するじゃないっ」
小声で犬夜叉に抗議するが、彼としては心配して声を掛けたのに此れは理不尽では無かろうかと眉間に皺を刻むしかない。
「妖怪変化は怖くねえのに、何に驚くんだよ」
「夜中にひとりだったら幽霊でも出るんじゃないかって驚くものなのっ」
「…幽霊って御前、何度も見たこと有るじゃねえか」
「怖くないけど怖いのよ」
「はあ?」
同じものなのに昼間は良くて、夜は駄目なのか。
かごめは心理的なものなのだと憤慨するも、犬夜叉にはさっぱり理解出来ない。
心の機微に疎い彼に察して貰おうと言うのが土台無理な話だったのかもしれない。
「良いわよ、もう」
深々と溜息を吐いた。
踵を返して、廊下の奥へと向かう。
「添ういや、何処に行くんだ」
「…良いじゃない、別に何処でも」
彼女の言い様に些かむっとしながら、犬夜叉はかごめの腕を掴んだ。
幾ら害が無いのだと弥勒が言い切ったとしても、妙なものは妙だ。
相変わらず犬夜叉の感じる気配は彷徨うように動き続けているし、
先程突然咲き始めた椿も様子見がてら通りすがれば更に数が増えていた。
ヒトであれば薄気味悪いとでも言うのであろう。
「ヒトが折角心配して…」
彼が最後まで言い切る前に、かごめは鋭い眼光でぎっと睨んでくる。
「トイレよトイレ!分かったら付いて来ないで!!」
一向に察してくれない彼に痺れを切らしたかごめは極力小さな声だったけれど、
真っ赤な顔で噛み付くように吼えた。
一瞬、トイレと厠が結び付かなかった犬夜叉だったが、
彼女の常日頃の言動から漸く悟った彼は気不味そうに言葉を濁した後、悪いと一言謝る。
犬の妖かしで在る犬夜叉はヒトの其れに比べて鼻も耳も良い。
其んな彼に用を足しに行くのに付いて来られてはどんな状況で在ったとしても堪らない。
「俺も行く。鼻栓して耳塞いでるから其れで良いだろ」
「よっ、良くないわよ!!あんた其んな性癖在った訳?!」
「せっ?!莫迦、違えよ!!」
あからさま過ぎる彼の発言にかごめは紅く成ったり、蒼く成ったりと忙しい。
違うのなら何だと彼女の視線が訴える。
だが、不用意に気付いていない彼女達に気取られるようなことは言いたくない。
ただでさえ日の本は言霊の幸う国。
迂闊に口にすれば其れが実際に起こり得ることも有るのだ。
かと言って、弥勒のように流暢に望まれぬ言の葉を除いて並べ立てることも出来ない。
犬夜叉は忌々しい自分の性格を呪った。
「違う、けど…御前がひとりのとき、何か有ったら厭だ」
神妙な面持ちの彼に、かごめは目を瞬かせた。
如何やら本気で心配してくれているらしい犬夜叉に嘆息する。
こうなると折れるのは矢張りかごめでしかないのだ。
厠の前に立つと、冗談かと思っていたのだが、
律儀にも犬夜叉は洗濯ばさみで鼻を抓んで両手で耳を押さえている。
有難いと言えば有難いのだが、添うしなければ聞こえたり臭ったりてしまうのだと思うと微妙な気分だ。
厠など無い山中での野宿の場合は他に如何しようもないので其処等で用を足すしかなく、
大抵見計らったかのように犬夜叉が何時の間にか遠くへ姿を消していたのは矢張りかごめ達を気遣っていてくれたのだろう。
空気が動いた気がして、犬夜叉は閉じていた目を開く。
「おい、かご…」
微かに聞こえた御簾の流れる音。
琥珀色の瞳が暗闇の中で動いた。
夜目で在ったにも関わらず、揺れた御簾の下から鮮やかに映ったのは朽葉と赤の百合襲ね。
(出、衣?)
まさか、と犬夜叉は目を瞠る。
ヒトのようで、ヒトでない気配。
此方に手出ししてくる様子も存在を誇示する様子も無かった。
出衣とは其処に自分が居るのだと教えるもの。
「犬夜叉?如何したの?」
沈黙してしまった彼に、かごめは厠の中から呼び掛ける。
少女の声に一瞬視線を逸らせば、忽然と出衣は消え失せていた。
だが気配は動き続けている。
妙だ。
(今のは)
「…大きいのと小さいの、どっちだ」
自問自答するように忙しなく動かされる琥珀の瞳が其れ等の姿を映し出すことは適わない。
変わりに響いたのは、おすわりと叫んだかごめの言霊の呪だった。
蛙が潰されるような声が廊下に響き渡り、ばんと音を立てて厠の引き戸が開く。
「最っっっ低!!!」
整った美しい顔を怒りで歪ませ、
かごめは夜叉のような形相で潰れたままの犬夜叉に目もくれずに部屋へと戻って行った。
何故彼女が突然腹を立てたのか分からず、
ぎしぎしと痛みを感じる身体を無理矢理起こして文句を言おうと口を開きかける。
だが、一言も発しない内に其れは閉じられた。
先程音にした言の葉を辿ればどのように聞こえるか思い当たり、
犬夜叉は力無く其の場に倒れ伏す。
「誤解だ…」
上手い言い訳を思い付く訳でもない彼は、
明日に成れば怒りが納まっていることを祈りながら先ずは問題を先延ばしにするしかなかった。








 *  * 伍