・最遊記・
カナシイ。
サミシイ。
クヤシイ。
それは、己が裡に秘めていたもの。
何も出来なかった自分への―――戒め。
いつかはこんな日が来るのだと、
心のどこかで織っていたとでも言うのだろうか。
ソレではあまりにも、滑稽に思えた。
ぼろり、と目の端から零れ落ちる何か。
溢れてくる、止まらないもの。
「アレ?」
ぐい、と目元を拭うが、それでも治まらない。
幼子は自分が泣いていることにすら気付かない様子で、
不思議そうに首を傾げた。
頬を流れているのは、涙。
涕。
泪。
なみだ。
ナミダ。
哀しい時に流れるもの。
嬉しい時に流れるもの。
ならば、何故。
「何で、泣いてるんだろ」
布団から這い出し、寝台の上を見やる。
既に寝入っているであろう主が横たわっているのが分かる。
長い金糸が白いシーツに広がる様はまるで天の川のよう。
外は、未だ明けやらぬ空。
星々が瞬く夜闇。
「金蝉」
彼のヒトの名を呼んでみる。
返事など無いのは分かりきっている。
一度寝入ってしまえば、いつも朝まで起きない。
なのに、何故。
「…何だ」
―――こんな時に限って返事をしてくれるの?
眠たげな、気だるげな声で金蝉は寝返りを打つ。
暗闇に月明かりだけで浮かぶ姿を見上げた。
「何だ、こんな夜中に」
「何で起きるの」
「あ?起こしておいて、何を」
「何で…」
「悟空?」
目を凝らしてみれば、頬に一筋の光。
金蝉は眉を顰めた。
「泣いているのか、お前」
ぶんぶんと首を振った後、俯いて目元を乱暴に拭う。
「分かんない」
じゃらりと鳴る、無機質な金属音。
「分かんないよ」
泣いている意味すら分からないと、悟空は頻りに首を振る。
ワケも分からず不安になって、
ワケも分からず泣きじゃくりたくなった。
「難しいコトって俺分かんないから、天ちゃん達が言ってるコト少しも…っ」
「天蓬、達?」
「分かんないケド、だけど」
悟空は溢れる涙を拭うことも忘れ、途切れ途切れにちぐはぐな言の葉を紡ぎ合わせる。
金蝉にも理解は出来ない。
何が言いたいのか、何を言おうとしているのか。
―――いつかはイイと思わね?
―――下界へと逃亡…亡命?貴方とですかぁ?
通りかかった彼らの職務室の薄く開いた扉から聞こえた、他愛の無い会話。
考えておきますよ、と天蓬は苦笑していた。
たったそれだけのやり取り。
だのに、何故こうも不安が押し寄せる。
「悟空」
呼ばれ、顔をあげる。
「お前が何を不安に思うのかは分からん。つーか、今何が言いたいのかもさっぱりだ」
寝台から身体を起こし、ベッドの淵へ足を下ろす。
素足に染みる、ひんやりとした床の質感。
ぐしゃり、と悟空の前髪を掴めば、呆けた色をした瞳とぶつかった。
けれど、と金蝉は口を開く。
「俺はココに居る。捲簾も、天蓬も。何が不満で、何が不安だ」
訊ねられた処で、答える術は持ち合わせない。
答えとなる言の葉は紡げない。
ソレこそが、悟空にとって理解し難いものなのだから。
悟空は搾り出された、嗚咽の混じった声でようやっと口を開いた。
「いなく、ならないで」
それだけで、イイから。
悟空は声を押し殺し、金蝉の腹へと顔を埋める。
ぎゅうと締め付けられるのが苦しくないワケでは無かったが、
しっかりと掴まれて離すことも出来ない。
かと言って、煩いと突き放すことも躊躇われて。
「出来るだけ、なら」
未来の約束は出来ない、まるでそう言うように金蝉は曖昧に返事をする。
悟空がそれでイイよ、と呟けば、彼は頭を乱暴に撫で付けた。
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・犬夜叉・
ざわり、と風が通り抜ける。
流石に夜ともなると冷える、の一言では片付けられない。
肌寒いともで言うのであろうか。
若しかすれば、今宵にでも雪が降り出すかもしれない。
ほう、と少女が息を吐けば、其れは白く染まり行き、ゆっくりと立ち消えた。
「冷えるぞ」
「えぇ、本当に」
小さく微笑み、月明りに目を細める。
時折月を隠すほどの深い雲が流れるが、其れでも夜闇は何時もに比べて明るい。
「中へ行け、十六夜」
御簾の向こう側、縁側から聞こえた声に、十六夜は首を傾げた。
「まぁ、如何して?」
如何して、と訊ねられても困る。
影――恐らくは、男の――は、添う苦笑して呟いたようであった。
「また、病の気に当てられる」
「添う、かしら…添うね、添う成るかもしれない」
彼の心配にも微かに瞬いただけで、十六夜はぼんやりと頷いた。
其れでなくとも、十六夜は身体が弱い。
病の気に当てられ易く、また倒れ易い。
少女に其れらを跳ね付ける程の力は、無い。
「心配して下さるのですか」
若しかして、といった色を滲ませた言の葉に、彼は眉を顰めたらしい。
空気が微妙に変わった。
「…当たり前だ」
憮然と吐き出された台詞は、心配しているようでもあったし、立腹しているようでもあった。
自然、あたたかくなる心。
綻ぶ、華。
「まぁ、嬉し」
花音と紛うかのような笑み声。
ころころと微笑う少女に、彼は益々眉を顰めた。
衣擦れの音が、静かな夜闇に溶ける。
「其のようなことを喜ぶな」
今度は確かに咎めていた。
けれど、十六夜はふわりと微笑んで目を細めただけで、
驚くことも、恐れることもしなかった。
ただ、微かに頬を染めたことを除いては。
「私は、貴方よりもきっとずっと早くに儚く成ってしまうから」
視線を落とせば、夜闇にも浮かぶ程の白い肌。
細く小さな手。
萌黄重に溶けてしまうような、白く、白い己が身。
「其のように思って下さる方が居るだけで嬉しい」
纏う衣に描かれた牡丹の、花びらのひとひらのように、
いっそのこと、美しく散って愛でられるのであれば。
そ、と目を伏せた十六夜は口を閉ざす。
「…其のようなことを、言うな」
彼は同じ言の葉を繰り返す。
少女をこの世に留める呪。
「目を背けようとも同じことに御座いましょう」
淡々と、けれど穏やかに十六夜は言の葉を紡ぐ。
紅を差さずとも小さな紅い唇が白い肌に映えた。
余計に、少女の病的なまでの肌の白さを感じさせる。
「私は何れ死ぬ。貴方もまた、同じように」
其れが、命あるもの全てに於ける理。
「貴方と同じ刻を生きることが出来て居たのなら、私は」
決して、逃れることの出来ぬ宿業。
「此の御簾すら跳ね除けて、貴方に触れることが出来たのでしょうか」
春暁の君、と十六夜は言い募る。
彼は、少女が望まぬ限り無理矢理に御簾の中へと足を踏み入れない。
穢れの移り易い十六夜を気遣ってのことだったのだろう。
妖かしとは其のようなもの。
ヒトが時として望まぬものを連れてくることがある。
時として其れは、望まれていたものでもあったのだけれど。
「貴方は、私に触れて下さって居たのでしょうか」
「十六夜…」
私は、と紡ごうとして、音が消える。
言の葉に成り得なかった音が沈む。
先は言ってはならないのだと、警鐘が鳴り響く。
彼らが望み、彼らが決して望んではならないもの。
望んだが最後、決して戻れぬ道へと進み行かねばならない。
お互いに、お互いが大事であったからこそ決して其れを言葉にしようとはしなかった。
流れる涙すら拭うことの出来ぬ御簾越しの距離。
触れることの叶わぬ、洞。
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・鋼の錬金術師・
―――無性に泣きたくなる時があるよ
夢と現実の狭間で聞こえた声。
―――だけど、こんな身体じゃ…泣くに泣けない
彼は今、どんな顔をしながら言っているのだろう。
笑っている、なんて―――エゴに過ぎない。
ガタンゴトン。
揺れる列車の窓枠に肘をつく。
流れる雲も、空も、風景も、全部が一色他に混ざり合う。
「兄さん兄さん、今あそこに羊が居たよ。リゼンブールを思い出すね」
「んー?あぁ、そーだな」
向かい側にかけている弟――とてもそうとは見えない厳つい鎧姿――のはしゃぎように、
エドワードは適当に相槌を打つ。
反応の薄い彼に、アルフォンスは雰囲気から察するに溜息を吐いて兄を睨んだ。
「…また何か、変なこと考えてる」
「変なことって何だよ!」
「別にそーいう意味じゃなくってサ?」
恐らくは見当違いなことを考えているであろうエドワードに向かって、
もうひとつ溜息を吐く。
からかい甲斐のある兄だとは思うが、
意思の疎通が上手く行かないときは厄介以外の何物でもない。
カシャリ、と鉄の擦れる音をさせて、アルフォンスは人差し指を立てた。
「ウィンリィもよく言ってるよ。兄さんは余計なことまで考え過ぎるって」
ぶすり、と口を尖らせて、再び窓の外へと視線を投げる。
「悪かったな」
だだっ広い草原が見える。
まだ、リゼンブールからそう遠く離れてはいない。
だからこそ、想いもまだ鮮明だ。
「分かってるなら善処してよね」
「考えとく」
もう、とアルフォンスは話半分にしか聞かないエドワードを窘める。
聞きたいのに聞けない。
怖くて、聞けない。
あの夜、泣きながら零した罪悪の念。
エドワードの心に一点のインクが落ちるかのように、聞きたいことが、またひとつ増えた。
アルフォンスの名を呼ぶと、何、と返された。
どう言えば良いのか、適当な台詞すら思いつかない。
押し黙った彼に、アルフォンスは首を傾げる。
「兄さん?」
「…俺はお前の代わりに泣くことは出来ないけど、だからってお前が我慢することなんてないんだぞ」
ようやっと口を開いたエドワードの意図を掴みかね、
アルフォンスはじっと、彼の言の葉に聞き入る。
我慢とは、何のことだろうかと思った。
それは彼にこそ相応しい言葉であったろうに。
「泣きたいときは、泣いても良いんだからな」
涙を流すばかりを泣く、とは言わない。
アルフォンスはようやっと意図を理解し、あぁ莫迦だなぁとひとりごちた。
泣けない、などと言ってしまった自分が情けない。
いつだって、泣けたのに。
泣いても良い場所があったのに。
えへへ、と笑うアルフォンスを、エドワードは訝しげに見やる。
何を笑っているのだと、ありありと顔に書いてあった。
「うん、ごめん」
からっぽの鎧の中身が、ぬくもりでいっぱいになる。
想っていてくれるヒトが居る、それだけで。
彼らはほんの少しばかり、ただ、不器用なだけなのだ。
「今、嬉しくて泣きたいかも」
「おぅ、泣いとけ」
ガタンゴトン。
揺れる列車の窓枠からは、蒼い空が見えていた。
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・ロスト・ユニバース・
―――泣くのは好きじゃないの
彼女はそう言って、今にも泣き出しそうな顔をした。
この時代には似つかわしくない黒マントなどというものを羽織った風変わりな男が、
コクピットに足を踏み入れる。
そこでは新しいオプション武器のカタログ画面に魅入る少女と、
適当な雑誌を開いている少女が既に己が位置を確保していた。
「キャナル、次の仕事は?」
「探してありますよ。ほら、コレなんかお勧めです」
「ふぅん、悪くは無いな」
でしょ、と相槌を打つキャナルに、ケインは頷く。
ミリィは相変わらず雑誌に目を落としたままだ。
「ん?」
「あ、ケイン。静かにして下さいね、ミリィ眠ってますから」
しぃ、と口元に人差指を当てて、彼に促す。
シートの後ろから覗き込んでみれば、こくりこくりと揺れながら確かに彼女は眠っていた。
「仕事の話だぞ?」
キャナルに視線を送ると、口元に当てていた人差指をこめかみにと移動させる。
細かい芸当のメインシステムホログラフィだと感心するようなことは既に無い。
「最近、眠れないみたいなんですよ。夜中、よく起きてきてます」
言われてみれば、うっすらと目の下にクマが浮かんでいる。
化粧もあまりしないミリィの肌はそれでも白く、
この分ではクマがはっきりと目に付き出すのは時間の問題だろう。
あれほどきつくキャナルに言い渡されているのに、
それでもパネルの横に置かれたコーヒーは、半分ほども減っていない。
眠れないくせにコーヒーなんぞ飲むなよ、と喉まで出かかった言の葉を呑み込む。
「ミリィをお願い出来ますか?ソテツちゃんに水あげてきますから」
「コイツは子どもじゃねぇんだぞ?」
「似たようなものですよ」
どういう意味だと訊ね返す暇も無く、キャナルはさっさと部屋を後にする。
頭を掻くと、もう一度ミリィの顔を覗き込んだ。
先程は気付かなかったが、眉間にきつく眉根を寄せている。
時折、何かを口にしようとして微かに唇が動くが、音にまでは成らない。
(…何だ?)
じっと、唇の動きを見つめる。
読唇術には長けていないが、全く出来ないというワケでもない。
生きていく上で憶えられることは、何でも憶えた。
(ア、ア…パパ…?それとも)
ママ、かもしれない。
同じ母音を踏んでの言の葉に、ケインは見てはならなかったのだと後悔する。
彼女が両親を恋しがるような歳ではないことは見れば分かる。
それでも焦がれるように呼ぶのはきっと、幼い頃に失ったものだから。
どのようにして失ったのかは聞いたことが無い。
聞いてはならないのだと、暗黙の境界線がしっかりと引かれていた。
だが、確かに感じたシンパシー。
(多分、ばあちゃんと同じなんだ)
彼女の両親もまた、彼の祖母と同じく。
(―――…ミリィの両親も、殺されたのかもしれない)
恐らくは、自分が感じたよりも、見たものよりも、より残酷な形で。
そうでなければ、蒼い顔をして夢に見ることなど無いのではないか。
「…ぅ、ん」
ミリィが漏らした声に、我に返る。
自分に向かって落ちている影を、ぼんやりと見上げた。
「…何やってんの、ケイン」
「お前が寝てるから起こそうかと」
こしこしと目を擦りながら、開いていた雑誌を閉じて放り投げる。
シートごとケインに身体を向けて、ごめんなさいね、とおざなりに謝った。
背伸びをするが、まだまだ眠たそうだ。
「寝るんだったら、部屋で寝ろよ」
欠伸を噛み殺すミリィに、ケインは出入り口を指差す。
「良い、眠たくない」
嘘を吐け、とひとりごちるが、彼女には届かない。
目前のミリィの頬に手を伸ばす。
目元に親指で触れると、彼女は小さく瞬きした。
「何?」
「…泣きそうな顔、してたから」
彼女が、動揺を見せることは無い。
試しに言ってみた台詞ではあったが、やはり何の反応も無かった。
私が?と可笑しそうにケインを見上げる。
まるで、そんなことはないのだと言うように。
「泣くのは好きじゃないの」
ミリィはにこりと微笑うと、シートから立ち上がった。
今にも泣き出しそうな笑顔で。
「仕事、決まったんでしょ?やっぱり私部屋に戻るわ。やり残してたことあったし」
不自然極まりない自然さで、彼女は踵を返す。
何も言わない。
何も言えない。
それが、2人の間の境界線。
手を伸ばしたところでするりと逃げられる境界線。
「分かった」
ケインは頷いて、その後姿を見送った。
どうか願わくば、君が泣ける日が来るようにと願いながら。
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・ハリー・ポッター(親世代)・
午後の太陽がほんの少し傾いている。
ちょうどお茶の時間。
ふわんとしたダージリンの香りと、
焼き上がったばかりスコーンの香ばしさが庭いっぱいに広がる。
「リリー、ブルーベリーが入ってるね。このスコーン」
「クロテッドクリームもあるわ、ジェームズ」
リリーはジェームズが抱いていた愛息子を受け取り、
自分も向かい側の椅子へと掛ける。
芝生に影が落ちた。
のんびりとした風が綿飴のような雲を運んでいく。
「どうしたの?」
唐突に口を開くリリーに、ジェームズは首を傾げた。
「何がだい?」
何を訊ねられているのかも分からないといった風に、
芳しい紅茶を1口含む。
あたたかいものがすぅ、と身体に染み渡る。
肌寒く感じる秋風すらも似付かわしい庭に、
萌葱色の葉がふわりと舞った。
「呆れた」
リリーは溜息を吐くと、
砂糖を1つ摘んでカップへと落とした。
その仕草はどことなく怒っているようにも見えて、
ジェームズはこめかみに人差し指を当てて考えてみる。
何か怒らせるようなことをしただろうか。
今日は1週間振りの休日だ。
つまりは定休なのではあるが、彼に言わせてみれば愛する妻と息子と一日中
共に過ごすことの出来る素晴らしい日なのである。
1週間に1度など、これほど悲劇的なものがあるだろうかとのたまっていたが、
リリーには全く相手にされなかった。
昨日の夜はどうだったろう。
リリーが入浴している間に、
ハリーにミルクを飲ませようとして粉ミルクをばらまいた。
すぐに片付けたから、気付かれたはずは無い、多分。
気付かれているのであれば、今日の朝食はウインナーの皮だけだったに違いない。
今朝は何かあっただろうか。
洗濯物を一緒に干した。
あぁ、そうだ。
物干し竿を一番上から全部落とした覚えがある。
あの時ばかりは、リリーの顔が見られなかった。
「まだ、今朝のことを怒っているのかい?」
「今朝?あぁ、貴方の手伝いには二度と期待しないことにしたから、それはどうでも良いのよ」
あっさりと非難めいた台詞を吐かれたが、
怒りの理由がそこにはないと言われたので、ジェームズはスルーした。
尤も明日、否、夜にでもなれば、綺麗さっぱり忘れ去っているのではあろうが。
今日のハリーの食事は何にしようかしら、と息子に向かって話しかけているリリーの横顔は、
贔屓目に見ずとも美しい。
ストロベリーティーのような髪に、エメラルドのような瞳。
意志の強そうな整った眉も、慈しみの細い指も。
「駄目だ、降参」
考えもせずに、彼女に魅入っていたとは言わないで、ジェームズは両手を挙げた。
「貴方って本当に臆病者ね」
突然評された言葉に、ジェームズはぱちくりと瞬きを繰り返す。
臆病者と言われるような身に憶えは全く無い。
きゃきゃ、とハリーが笑った。
息子と妻は臍の緒が離れた今でも繋がっているのでは無いだろうかと、時々疑ってしまう。
「…辛いことを辛いって言わないのは、格好良くも何でもないのよ」
誰よりも早く、彼の痛みに気付くことが出来るのに、
彼はそれを気付かせまいと必死で。
突き詰めれば、するりと交わされ、逃げられて。
そんなジェームズが悔しくて、悲しかった。
「私達、夫婦じゃないの?どうして貴方は昔から、痛みを自分ひとりのものにしようとするの?」
彼が抱えているものは、恐らく、生半なものではない。
この時代で、希望など見えるのだろうか。
彼らに迫るのは、服従か死か。
それ以外の道を何としてでも探し出す。
想いは同じ、はずなのに。
「私は、貴方の痛みも織っていきたいと思ってる」
微かに頬を染めて、彼はありがとう、と呟いた。
何がありがとうなのか、リリーは彼をねめつける。
「…それでもやっぱり、泣くのは男として恥ずかしいよ」
だから、とジェームズは苦笑する。
「今は、気付かなかったフリをしてくれないかな」
リリーは視線を厳しくして首を振った。
さきほどよりも、余程不機嫌そうに。
「厭よ」
クロテッドクリームをスコーンにたっぷりとつけて、口に放り込む。
ナプキンで手を拭くと、冷めかかった今度は紅茶を飲み干した。
泣きなさい、泣いてしまいなさい、とリリーはジェームズに向かって言う。
「ここには、私とハリーしかいないのだから」
ハリーも嬉しそうに笑顔を見せた。
泣いてしまいそうになるくらい辛い現実も、
泣いてしまいそうになるくらい幸せな今も、
ジェームズにとっては夢のようで。
前者が夢であったら、どんなに良かったろう。
だとすれば、彼女は愛する家族と決別することもなかっただろうに。
何としてでも守り抜くと誓ったのは、伊達や酔狂では成し得ない。
「リリー、ごめん…ありがとう」
謝る必要など無いのに、とリリーは嘆息する。
ジェームズは、組んだ両手に額を押し付け、声を押し殺した。
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