濡れたハンカチを差し出され、遙は受け取った。
木陰のベンチに腰掛け、背もたれに身体を預ける。
「落ち着いた?」
翔が微笑うと、彼女は頷く。
瞼を軽く冷やすと、力なく笑った。
「…ごめんね」
「うん?」
彼女の前に座り込んで、見上げる。
「いきなり、泣き出しちゃって」
「ははは!いいんだよ、たまには困らせてやんなきゃ」
近くのファーストフード店から買ってきたらしいジュースを、
翔の後ろから差し出した。
受け取って口をつけると、冷たいものが喉を落ちていく。
「落ち着きはらって可愛げねぇだろ、コイツ」
彼の持っていた自分の分のジュースを取上げた。
「お前が言うな」
そんな彼らの様子を眺めていると、何故か心が落ち着いていく。
気付けば、笑い出していた。
「アレ?」
「聞いてるのか、速水!」
あしらわれているとしか思えない翔を見ると、益々笑いが込み上げてくる。
2人は顔を見合わせると、安堵したようにため息をついた。
「説破君も、そんな顔するのね」
「元気が出たようで、良かった」
優しく微笑む翔に、遙は口元を抑える。
「あ」
口元を横一文字に縛ると、俯く。
濡れたハンカチを握ると、水滴がぽたりと落ちた。
「…私、何が何だか…分からなく、なって」
「うん」
「どう、言ったらいいのか、分かんないんだけど」
「うん」
「怖く、なって」
「うん」
ひとつ、ひとつ。
ほんの少しずつ紡ぎ出される言の葉を、彼らは黙って聞いてくれた。
それが不思議と、遙を落ち着かせる。




―――何だろう




『いいのよ、たまには困らせてやっても』




―――ずっと遠く…




『いつも落ち着いていて可愛げないでしょう、このヒト』




―――どこかで、見た気がする






『手厳しいな、お前は』





笑い声が聞える。





『僭越ながら、私も御前様に賛成で御座います』





誰の、声だった…?




遙の意思ではない言の葉が、唇に乗せられる。
「よ、し…?」
瞬間、翔と速水が彼女を見やる。
その表情には、驚きが映し出されていた。
遙は、己が発した言葉すら理解していない。
「あ、の…?」
彼らの表情など、理解出来ようはずも無かった。
「…思い、出したのか?」
切羽詰まった速水の物言いに、遙は、え、と短く声をあげる。
「思い出したのか?!『御前』さ…」
「速水!!」
速水の身体を抑え、短く制す。
「けど、翔…」
それでも、何かを言おうとする彼を一睨みした。
今度は静かに、先ほどよりも低い声で彼の名を呼ぶ。
「速水」
速水はとうとう押し黙った。
事の展開について行けず、遙はおろおろと見守るばかりだ。
「速水さん?説破君?」
「驚かせてゴメン。何でもないんだ」
ケンカじゃないよ、と付け加えた。
憂いを秘めた瞳で、遙を見つめる。
その瞳に懐かしさすら感じながら、遙は視線をそらした。




「…ゴメン」




ニュアンスの違う彼の謝罪に、違和感を憶える。
その時の気持ちを、何と言えば良いのだろう。
遙は気付かぬうちに、彼の手を握ってしまっていた。
「…謝らなければならないのは、きっと私の方なんだね?」
座りながら、彼を見上げる。
戸惑いながらも、彼は手を振り解きはしなかった。
「私が、貴方にそんな顔をさせているのね?」
「ちが…っ」
否定するより先に、彼は手を強く握り返した。
それでも、遙は首を振る。
「きっと、違わない」
真っ直ぐに、翔を見つめた。
視線が絡み合い、そらせなくなる。




「貴方は…」




大きな咳払いが、彼女の台詞を遮る。
握っていた手を慌てて放すと、そちらを見やった。
ひらひらと手を振る速水が目に入る。
「俺もいるの、忘れてない?」
言われて、耳まで真っ赤に染まる2人。
「ご、ごめんなさい!」
遙は即座に立ち上がり、その場を逃げるように去ってしまった。
笑顔のまま、速水を振り返る翔。
「はーぁやーぁみーぃ?」
「待て、俺の話を聞け!」
怒りMAXな翔に、両手で静止をかける。
目が据わっているのにも慌てたが、それよりも何よりも。


「あのままだったら、絶対にしゃべってたろ?!」


その台詞に、息をのむ。
「話して、巻き込む時を早めただろう…?」
声のトーンを落とす彼の心情を察して、翔も口を噤んだ。
言わんとしていることは、分かる。
「絶対に、『御前』様の『チカラ』は必要となる」
翔の隣を通り抜け、ベンチへと俯いて座り込んだ。
組まれた両手が、軋むほどに握られる。
「けど、それまでは…普通でいさせてやりたいじゃねぇか」
彼らは、記憶が全て戻った時に覚悟を決めた。
けれど、彼女は違う。
記憶すらも持たずに、ただ歴史の波に呑まれようとしている。
否。
前世の記憶など、持っている人間の方が少ないのだ。
翔はひとつため息をついた。
「お前の、言う通りだ」
自嘲気味に微笑い、片手で顔を覆う。





「昔に戻ったような、錯覚をしていたのかもしれない」





もう一度、君の唄が聞きたいんだ。






庭に向かう廊下で、唄が聞える。
彼の従者である男が、ふむ、と唸った。
『どうだ、見事だろう?』
彼が後ろに控える男に向かって、自慢げに胸を張る。
『しかし、『裏巫女』とは如何なるものか』
『説明しなくては駄目か?』
『駄目、でございます』
明らかに面倒くさがり屋な主人を諌めるように、
従者の男はじろりと睨んだ。
『実際に神社に仕えている巫女は、俗に『表巫女』と言い、神に直属して仕える巫女を『裏巫女』と言う』
傍に降ってきた桜の花弁を掴み、放す。
ひらひらと舞う薄紅色は、真青な空に良く映えた。
『神社に仕える巫女も、神に仕える者では?』
『厳密には違うのだよ』
どう言ったものかと、彼は唸る。
元々、こうだ、と定義してあるものを、いざ説明しろと言われると正直困った。
同じ見識を持つ者など、多いようで少ない。
心が通じていると言っても、手に取るように分かるわけではないのだ。
『偶像崇拝に立てられる巫女では『裏巫女』にはなれない。彼女達は神に仕えるのではなく、社に仕えていると言っても過言ではないだろう』
少しずつ、彼は説明を始めた。
『こう言うと悪いが、神社の巫女は『チカラ』をさほど持たなくとも、従順であれば選ばれる』
巫女とは、神への贄。
清らかであらねばならないのは勿論のこと、
その社へと忠誠を誓い、従順であらねばならなかった。
昔はそうではなかったのであろうが、時代が進むにつれ、
神の存在すら、政へと利用されて久しい。
『けれど、『裏巫女』は『チカラ』を持つ者こそが選ばれるのだ』
『その『チカラ』とは『正』か『負』か?』
具体的な説明をしない主に、彼は無礼とは織りつつも、思わず口を挟む。
意に介した様子も無く、主は答えた。
『どちらも、だ』
庭に向かう手すりへと腰掛け、向かい側の従者を見上げる。
こういう場合、行儀が悪いと忠告するべきだが、
何分、己も育ちが良いとはお世辞にも言えない。
忠告するにも出来ない状況である。
『使い方如何によってはな』
仕方なしに、従者は彼よりも下に、つまり、廊下に腰掛けた。
珍しく思案顔の彼に、主はどうした、と声をかける。
『鎌倉殿は、この事は…』
あぁ、と呟き、物悲しく笑みを浮かべた。
『幸いなことに、ご存知ではないのだよ』
『では』
『そう、今のうちだ』
彼の決定に背こうなどとは、微塵も思っていない。
ただ、どうしてもそれが、彼の本意とは違う気がしてならなかった。
だから、問うた。



『鎌倉殿を裏切ることに…なっても?』



彼は答える代わりに、曖昧に頷くだけだった。
誤魔化すように、全く別の言を唇に乗せる。
『もし、封印の施しを織られても、『裏巫女』である彼女だけは隠し通せ』
館の中だと、気を緩めているのであろうか。
彼は髪を解き、直衣を緩めた。
堅苦しい格好こそ、変に偉くなったと言われている気がしてならない。
自分はどこも変わらないのに、と常々思う。
『兄上に織られなければ、彼女だけでも生き長らえる』
『そこまでして、何故?』
従者は己の得物を持ち直すと、怪訝そうに尋ねた。
『惚れた弱みだ』
あっさりと返される台詞に、開いた口がふさがらない。
どうやら、こういう歯の浮く台詞でも、
彼はすらすらと並べ立てることが出来るらしい。
『勿論、お前達も大切だよ』
忘れずに、釘を打つのも主らしい。
彼は思わず口元を緩める。
『この国が平安であれば、それに越した事はないだろう?』
『全く、貴方という方は…』
呆れとも、同情ともとれるため息に、彼はふむ、と頷く。
『私の元へは、変わり者ばかり集まるらしい』
しみじみと言う彼に、今度こそ呆れて笑い出した。
大声は、舞姫の元へも届いたらしい。
怪訝そうにこちらを見ている。
『類は友を呼ぶという諺をご存知か?』
さぁ、と嘯き、舞姫へと手を振った。
『織らんな』



それは、いつかの昼下がり。






何度かの呼び出し音の後、見知った声が耳に届く。
「どうしよう、鈴ちゃん」
友人へと発した最初の台詞は、それだった。
電話口でいきなり言われても、こちらが『どうしよう』だ。
『とりあえず、何なのいきなり』
呆れた口調で、返してくる。
すぐには返って来ない声に、鈴は遙の名前を呼んだ。
「…どうしよう」
『アンタ、泣いてるの?』
携帯電話に映像が見えるはずも無いのに、遙は首を振る。
彼女の部屋の中にも、勿論誰もいない。
ベッドに寝転がり、枕に顔を埋めた。
『遙?』
ゆっくりと諭すような声。
遙は、ぐい、と寝巻きの裾で涙を拭う。
「自分の気持ちが…分からなく、なったの」
涙声の遙が、言い出したことに、
鈴には、思い当たりがあったのだろう。
暫くの沈黙の後に、口を開く。
『もしかして、説破君、とか?』
思わず目を見開く。
「どう、して?」
段々と、早く打たれる鼓動。
全ての血が逆流して、頭へと戻ってくるような感覚。
忙しなく響く心音すら、喧しく思えた。
『織ってた?』
何を、と問い掛ける暇も無く、彼女は続ける。
『説破君ねぇ、自分から話しかける女子ってアンタだけなのよ』
向こう側で微笑んでいるかのような、錯覚を起こす。
事実、彼女は微笑っているのだろう。
『言っていいのかどうか、分からないけど』
ただ、微笑んでいるのではなく、どちらかと言えば、苦笑、だろうか。
何と言えばよいのか、何と言うべきなのか。
考えあぐねているうちに、彼女の言の葉は紡がれる。


『説破君といる時の遙が、1番自然に見える』


強く、頭を殴られたような衝撃。
遙はベッドから飛び起きた。
「でも、私は…!」
『沢木先輩がいる、でしょう?』
「鈴ちゃん…」
目頭が、熱くなってくる。
自分は何と情けないのだろう。
己が導き出さなければならない答えを、ヒトへと委ねている。
言っている彼女も告げることを辛いと、分かっているはずなのに。
遙は己の無力さを、ただただ、呪うしか出来なかった。
『理恵には?』
「言えない、よ…。言える訳が、ないよ」
微かに、戸惑う。
余談ではあるが、遙の友人である理恵も沢木に好意を抱いていた。
女という生き物はややこしいもので、
友人同士で、同じヒトを好きになれば、自然、関係すらぎこちなくなってくる。
同時に告白して、遙が沢木に選ばれた。
そういった葛藤があった後、ようやく友人関係まで戻れたのだ。
『そう、だね』
内情を織る鈴も、言葉を濁す。
でも、と彼女は呟いた。
『最後は、遙が決めなきゃいけない』
彼女の台詞に、是と頷く。
「…うん、分かってる」
力なく、遙は自分にその言葉を言い聞かせた。







そうして、遠い想いの夢を視る。







唐突に漏らされた呟きに、彼女は目を剥く。
『今、何と?』
贈られたいくつもの扇を眺めていた手を止め、彼を見やる。
秋の風が、ゆるやかに季節の香りを運んだ。
正面に腰掛ける彼は、うん?と顔を上げた。
『惚れた』
淡々と、世間話ついでに紡がれた愛の告白に、彼女は眉を顰める。
『誰が、誰に?』
扇を膝元に戻すと、姿勢を正した。
足を崩したままの彼とは正反対である。
『私が、そなたに』
嘆息して、別の扇を手に取る。
見事な桜が描かれていた。
『ご乱心を』
『乱心ではないよ』
『ではお戯れ?』
『違う』
ぱらら、と微かに音を湛え、最後まで扇が開かれる。
骨に香木を使ってあるのだろう。
芳しい香りが鼻をつく。
珍しい、と呟いた後、何度か扇を返してみた。
『私は『裏巫女』にございます』
風に乗り、香木の香りが部屋中に漂う。
手に馴染ませるように、開いたり閉じたりを繰り返した。
『けれど、その前にひとりの女だ』
手を動かすだけの中途半端な舞を、じ、と見つめる。
『『裏巫女』は生まれ出で、果てるまで『裏巫女』。それ以外のものにはなりませぬ』
『なるさ』
『なりませぬ』
『なる』
堂々巡りの会話に、舞姫は重たい十二単を脱ぎ捨てる。
元々、白拍子は狩衣のような出で立ちだ。
そうでなくとも、普段は町娘と同じ格好しかしたことがない。
動きにくいのは当然だろう。
白い着物に、朱の袴。
それこそ巫女装束のようだ。
『確かに、『裏巫女』は神に直属するながらも、『裏』なる存在ゆえ、穢れを以ってしても『チカラ』は消え失せませぬ』
ふぅわりと舞う彼女は、さながら天女のようだ。
けれど、先ほどの台詞を無かったものにされかかっている今、
言葉にしても、呆れられるだけであろう。
『穢れに勝る『チカラ』ということか』
彼女は頷く。
『けれど、貴方様に、そのような感情は…』
『あるだろう?』
言われて、彼女は舞を止める。
彼の眼差しを、正面から受け取った。
『お前が、私を見る眼差しは優しい』
『貴方は…』
常ならぬ彼の瞳に戸惑いながら、つい口をついてしまった。
『…全てを慈しむような瞳をして。全てを拒絶するような瞳をして。どうして、貴方は笑うのですか?』
彼は答えなかった。
ただ、困ったように微笑んだ。
言ってしまえばいい、そう思った。
『お前には関係無い』と。
強く、拒絶してしまえばいい。




事が済めば、別れしか待っていないと織っているから。
どうせ、別れてしまうのならば、
このような想いも、最初からなければよい。




『私の自惚れ、か?』




それなのに。



『…貴方様には、敵いませぬ』





戯れでも良いから、彼と共に歩みたいと願う自分がいた。






差し出された手を取り、舞姫は目を閉じる。
『私も、貴方様をお慕い申し上げております』
嬉しゅう御座いますわ、そう言って、彼女は初めて笑顔を見せた。








広い体育館で、ボールの跳ねる音がじぃんと木霊する。
がらんとした広さに、静けさだけが広がった。
「先輩、お話が…」
遙は口を開く。
部員が帰ってしまった体育館で、沢木と2人だけが残っていた。
ユニフォームを着替えもせずに、
彼は軽くドリブルをして、シュートを繰り返す。
ゴールリンクを沿い、ボールが廻ると、
吸い込まれるようにすとんと落ちた。
「丁度良かった。俺も話があったんだ」
振り向きもせずに、沢木は口を開いた。
「今度、出かけようと思うんだけど、遙も行かないか?」
「どこへ?」
彼の背中に不安を感じながらも、遙はおずおずと尋ね返す。
この前の事に、怒ってはいないのだろうか。
拒絶されてはいないのだろうか。
不安と、恐ればかりが脳内を渦巻く。
「神奈川県」
ぽん、と導き出された返答は、突拍子もないものだった。
怪訝そうに顰められた眉は、簡単には戻らない。
「神奈川?」
微笑っているのだろうか。
彼の声音は嬉しそうだ。
ただ、嬉しいとも違う。
何か、そう例えば。
心待ちにしていた何かが、そこにあるような。
子どもが喜ぶそれと、酷似している気がしてならなかった。
「そう。鎌倉の『鶴岡八幡宮』」
「参拝、ですか?」
「違うよ」
「え?」
ゴールを抜けて戻ってきたボールを取り、もう1度投げる。




「壊しに行くんだ」




穏やかではない台詞の内容とは打って変わって、彼は微笑んでいる。
そのアンバランスさに、ぞくり、と背筋に冷たいものが走った。
「先輩?」
何を言ってるんですか。
冗談めかして返せば良い。
思っているのに、口が思うように動かない。
声が出ない。
「あの女がその血と引き換えに施した封印を」
「先輩?」
再び落ちてきたボールを拾わずに、振り返った。
無垢な子どもが微笑うように、彼は淡々と告げる。
「お前も見たいだろう、この国が壊れ行く様を」
無垢であるがゆえに、善悪の区別すらつかない。
不思議と、感じた。
「何、を…?」
尋ねることすら、意味の無いことだと分かっていても、聞かずにはいられなかった。
彼の瞳は、遙を映しているようで、全く何も見えていない。
胸が締め付けられ、涙が溢れそうになった。
「果てるしか無かった、我が一族の末路を」
恍惚とした光を宿し、沢木の瞳が歪む。
遙を引き寄せ、抱きしめた。
「見せてやろう、この国の奴等に」
「先輩…?」
見上げると、彼の顔がすぐ傍にある。
す、と遙の頬に手が触れた。
先ほどまで動かしていた身体だというのに、何と冷たいのだろうか。





「なぁ、『政子』」





「『マサコ』って…誰、ですか?」





本当に零れそうになる涙を堪え、彼女は沢木の身体を突き放した。
「何を言っている?」
彼は、彼女が憤っている理由が分からないようだった。
余計に、それが情けなくなった。
「私は、『マサコ』じゃありませんっ!」
叫び、彼を突き飛ばした。
両の手の平が、じぃんと熱い。
指先が震えているのが分かる。
何も言えなくなって、遙は彼から遠ざかった。
彼女の背中を目で追いながら、触れていた手を呆然と見つめる。
「離れる、のか」
追いかけもせずに、彼は言う。
遙と入れ替わるようにして、長身の影が体育館へと現れた。
最初から何も無いようでいて、
最初からそこにあったかのような雰囲気を湛え、彼は口を開いた。
「…『頼朝』様」
しかし、沢木は答えない。
男がいることすら、気付いていないように呟く。
気付いていないよう、ではなく、本当に見えていないのかもしれない。
長身の男にとっては、さほど意味のないことなのだろう。
主がそこにあれば良い。
主を護ることが出来れば良い。
ただ、それだけなのだ。
「お前が、私を…裏切るのか」
戦慄く指先は、何を想うのか。
静かに、長身の男は目を伏せる。
沢木が、何事かを呟いた。
音も届かず、小さく唇を震わせただけであるにも関わらず、
『佐助』は彼の足元に膝ま付き、頭を垂れた。
「仰せのままに、『頼朝』様」
抑揚の無い、感情の篭らぬ言葉で、彼は『頼朝』へと忠誠を誓った。




―――私じゃなかった




歩きながら、溢れる涙を拭いもしない。
生徒も殆ど下校してしまった所為か、誰とも顔を合わせなかった。
誰もいないと思うと、余計に涙が零れた。
歯を食いしばっても、嗚咽は抑えられそうも無い。




―――先輩が見ていたのは、私じゃなかった




見たことも無い、穏やかな瞳。
聞いたことも無い、優しい声。



見ていたのは、違う『誰か』。
呼んだのは、織らない『誰か』。



悔しさよりも、情けなさが勝った。
今まで向けられていると思っていた愛情は、
全部、遙を通して見ていた『誰か』へ。
気付けなかった己を呪い、
勘違いしていた己を恥じた。




―――私は何て、愚かなのだろう




きっとそこには、最初から何も無かった。





荷物を取りに教室へ戻ると、
翔と速水が何やら深刻そうな面持ちで話していた。
扉が開く音に気付くと、2人はこちらを見やった。
「伽津木さん」
「どーした?また、泣いてんのか?」
あはは、と笑う速水に、遙はふつふつと怒りが込み上げてくる。
こちらが、こんなにも沈んでいると言うのに、
何と言う無神経なのだろう。
「…八つ当たり、してもいい?」
呟きにも似た台詞に、速水も翔も目がテンになる。
「へ?」
思いっきり歯噛みして、拳を固める。
これでもかと言うくらいに、大声で叫んだ。


「『マサコ』って誰よ
―――――――ッッ!!!?」


耳がキィンと痛む。
何が起こっているのかすら分からずに、
2人は彼女の剣幕にただただ閉口した。
「お、落ち着いて、伽津木さ…」
「他に好きなヒトがいるんなら、はっきり言えば良いじゃない!!」
つかつかと2人の傍に歩み寄り、座っていた翔の肩を掴む。
前後に揺さぶり、思いの限り叫びまくった。
「似てるだけで、私を選ばないでよ!!」
「あ…の、お嬢ちゃん?」
呆然としながらも、
無意識に遙を止めようとする速水の手は、虚しく宙を掴む。
「本気で、好きだったんだからっっ!!」
がくん、と急に力を無くし、崩れ落ちる。
遙は床へと座り込んだ。
冷たさが、足を伝って登ってくる。
次から次へと零れ落ちる涙が、床を濡らした。
「私は…どうすれば、いいのよぉ…っ」
必死で、声を押し殺しているのだろう。
肩が震えていた。
「『マサコ』って…誰、よ…」
やっとのことで遙から解放された翔が、その名前に反応した。
「『マサコ』…?」
「本当に、『マサコ』と言ったのか?」
速水も彼に続く。
急に鬼気迫る表情を見せた2人に、遙は困惑する。
「…え?えぇ、そうよ。沢木先輩が…呼んだわ」
悲しみとも、悔しさとも取れる震えを、必死で抑える。
涙が、一滴落ちた。
「沢木…」
聞き覚えのない名前を、彼は探るように呟いた。
すぐに、速水が口を開く。
「俺のクラスだ」
険しく眉を顰め、ぐしゃり、と前髪をかきあげた。
小さく舌打ちが聞える。
「思ったより近くにいたな。こりゃ、本格的になってきたぞ」
2人にしか分からない程度の会話で、遙は置いていかれていた。
聞いてよいものかどうか迷いながら、おずおずと尋ねる。
「ねぇ、何の話?」
何かを言おうと、翔は口を開く。
だが、音を成さないまま、きつく閉じられ、俯いた。
「説破君?」
「…違う」
ぽつり、と呟かれた言葉に、遙は首を傾げた。
何が違うと言うのか。
「僕は…『私』の、名は…」
言いかけて、強く首を振る。
1度頷くと、彼は顔を上げた。
床に座り込む彼女に手を差し出して、立ち上がるように促す。
「僕の話を、聞いてくれないかな」
「え?」
「嘲笑ってもいい。莫迦にしてもいい」
矢継ぎ早に重々しく吐き出される台詞は、彼の真剣さを物語る。
遙は、じっと彼の言葉を待った。
「だけど、僕達には君が
―――…必要なんだ」
益々分からなくなっていく言の葉に、どのような意味があるのか。
聞き届けなければならない、と思いながらも、心の中で警鐘が打ち鳴らされる。
「『チカラ』を貸して欲しい」
どうか。強い懇願の意を持つ響きに、彼女は動けずにいた。





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