切り出されたのは、突拍子もない、現実味のない話。
「輪廻転生って、信じる?」
言葉を選びながら、翔が話そうとしている事は見て取れた。
遙はその質問に、重ねて問う。
「生まれ変わり?あったら面白いとは思うけど」
「じゃあ、僕達が前世を憶えているって言ったら?」
にこ、と笑うが、彼の瞳には焦りを感じる。
簡単に答えてよいものか、彼女は返事を言いかねた。
「正しくは、『覚醒』だな」
速水が軽く言って、肩を竦める。
トン、とこめかみの辺りを指で突付く。
「途中で思い出したってヤツ」
意図が読めない。
遙はほんの少し怖くなり、逃げ腰な答え方をする。
「話が、よく見えないんだけど」
「『源義経』と『武蔵坊弁慶』」
笑い飛ばそうとしたのに、笑う暇すら与えない受け答え。
真剣な彼らに、失礼であったのは重々承知している。
織らずに、それ以上を聞くことを無意識の内に拒否していたのかもしれない。
「それが、僕達の前世の名前であり、成した業」
拳を握ったまま、翔は手を膝の上に置いた。
「物事には、絶対に何か意味がある」
「俺達の記憶が甦ったことにだって、な」
彼の言葉を補い、速水が口を開く。
遙はただ、黙って彼らの話に耳を傾けるしかなかった。
「日本には、幾つかの封印がある」
先ほどの輪廻転生と何の関係があるのだろうか。
分からなくなるほどに、御伽噺か、ゲームの話を思わせる、単語の数々。
何が分からないのかも分からない。
紡ぐべき言葉すら見つからなかった。
「それらが日本を護っているんだ」
黙りこくった遙が耳を傾けていることを確認すると、説明を続けた。
浮かんだ眉間の皺は、消えない。
「最近になって、それが壊され始めた」
何か言わなければ、そう思い、遙はさして興味もないのに口を開く。
「壊されたら、どうなるの?」
「簡単なことさ。崩れるんだ」
ため息ついでに吐き出される答えは、やはり現実味がない。
目の前で話されていることが、どうも遠い世界のことのようで。
そもそも、何故自分がこのような話を聞かされているのかすら、理解できなかった。
「自然災害であったり、ヒトの手によるものであったり」
立ち上がって、教卓へと進む。
遙の視線が彼の背中を追う。
速水は白いチョークを手にすると、簡単に図形を描き始めた。
封印と文字を書き、その周りに大きく円を描く。
書かれた文字に、紅いチョークで大きく×を重ねる。
お世辞にも上手といえるものではない。
「何らかの形で、必ず崩れる」
周りの円を消すように、今度は黄色のチョークで大きく×を描いた。
「その封印が護っていた土地が、ね」
カツカツ、とチョークで黒板を叩く。
翔は、顔だけを教卓へと向けて、頷いた。
「防ぐ手段はひとつだけ」
真剣な面持ちで、遙を見つめる。
「もう1度、封印を施すんだ」
黒板に描かれた図解を消し、速水は黒板消しを元の位置に戻した。
手についた白墨の粉を払い落とす。
「封印と言っても、封じ込めるものじゃない」
速水の言う通り、と翔はもう1度頷いた。
目の前で話されている事象は、あまりに遠い世界の話。
遙は、何故自分がこのような話を聞かされているのかすら、理解できなかった。
「鎮める、と言った方が適切かもしれない」
だが、彼らは重要機密を話すようにして、口を重たく開く。
聞いて欲しい、と言った。
それは、遙にも関係のあることなのだと、直感で分かる。
「ヒトの犯した業は、ヒトの手によって贖わなければならないんだ」
彼の言う業とは何か。
理解出来ずとも、ヒトの世の理とも言える台詞に、遙は恐る恐る頷く。
「封印を施すのもヒトならば、封印を壊すのもまたヒト」
目を閉じて、遙から顔ごと視線をそらす。
その面は、とても哀しげに見えた。
「封印を壊しているのは、『私』の『兄上』」
ゆっくりと瞳を開く。
呟きとも取れる、聞き取りにくい声量。
「『源頼朝』だ」
その名前を、尊敬と畏敬の念を込めて呼ぶ。
彼は誰も憎んでなどいない。
そう、感じた。
「だからこそ、僕が…僕達がやらなければならないんだ」
前世を思い出しているのだろうか。
翔は遠くを見ながら、語り出した。
「『私』は当時、『兄上』の元へと馳せ参じた」
一人称が変わったことに気付いたが、遙は何も言わなかった。
一変して、彼を纏う雰囲気が穏やかながらも鋭いものとなる。
「『兄上』が封印を掌中に納めようとしていると、耳にしたからだ」
手元を見つめ、彼は言う。
時は鎌倉。
まだヒトが、足を一般移動手段とし、武器を刀としていた時代。
武士という身分が、やっと確立された時代でもあった。
「この国を護る為、『私』はそう思って、『兄上』に加勢しようとした」
『源頼朝』の敵となる者を討ち、滅ぼした。
唯一の近しい肉親とも言える兄に、思いを馳せて。
「けれど、違った」
初めて出会った彼は、愛する者を護ろうとする強さを持っていた。
ただ、それは、『源義経』が持つ強さとはあまりにも異なっていた。
正反対と言っても過言では無かったろう。
「『兄上』は力で、この国を押さえつけようとしていたんだ」
日ノ本の国中の封印を掌中に納め、解けるか否かの状態を保つ。
『源頼朝』は簡単に壊すことが出来るのだと、見せ付ける為に。
「志が違うことに気付いた『私』は、気付かれないように、『兄上』の懐を探った」
酒を飲み交わし、世間話をする。
たまには兵法を論じ、互いの能力を分かち合った。
間違いなく、2人にとって兄弟の絆を確かめる時間。
「内部からの方が、状況が把握しやすかったからね」
諦めきれない表情を浮かべ、翔は首を振った。
思い出ばかりが、彼の戦略を鈍らせる。
兄を騙していると、良心に苛まれ、気持ちだけが沈んでいった。
「『私』が護りならば、『兄上』は攻め」
裏切るという行為を、決して快く受け入れたわけではない。
「愛する者の為、この国の平安を求める心は同じだったはずなのに」
どこで間違ったのだろう、やるせなく翔は呟く。
「『兄上』に分からぬよう、『私』達は弱まっていく封印を、再度施していった」
それでも、数少ない家臣達から甘いといわれながら、
最後まで、共存の方法を探した。
兄が、道を正してくれるのではと信じて。
「が、気付かれた」
速水は悔しげに歯噛みする。
ぱしり、と手の平に拳を打ちつけた。
「だから、俺たちは京を出たんだ」
何度も何度も、京を出た後も人織れず、『源義経』は兄に文を送り続けた。
だが、彼の想いは、兄に届く事はなかった。
使いを頼んだ者は皆殺され、辛うじて生き残った者の話で、
全て、読む前に焼き払われたと織らされた。
何も織らぬ者ならば、殺されることもないだろうと踏んで、
名乗りもせずに使いを頼んだ。
しかしながら、兄の怒りは深く、根強かった。
『源頼朝』もまた、信じていた弟に裏切られたことを哀しんだのだ。
そうまでしてやっと、己の認識が生易しいものだと気付く。
心のどこかで信じていたものが、音を立てて崩れ去った。
正反対の道を歩むのならば、全てを賭しても立ち向かい、闘わねばならないのだと。
「『静御前』を織っているか?」
話を切り替え、速水が遙を振り返る。
振られた話題に、教科書を思い出しながら回答した。
「『源義経』の愛妾。その頃の京でいちばんの白拍子、でしょ?」
「もう1つ」
頷き、速水は人差し指を立てた。
「『裏巫女』の性質を持ち合わせていた」
聞いたことも無い言葉に、遙は怪訝そうに尋ね返す。
「『ウラミコ』?」
「詳しい説明は省くけれど、『裏巫女』たる『静』の『霊鎮めの舞』こそが、封印の手立て」
翔が言うと、速水が続く。
2人の説明は、補い合いながら、ひとつに繋がっていた。
「『鎌倉』殿にその存在を織られなかったのが、不幸中の幸いと言った所か」
嘆息して、速水は頭を掻く。
彼らが話していることが本当ならば、それはずっと遠い昔のこと。
今の時代には左程関係のないことだ。
「『静』の存在は、『私』達には必要不可欠だった」
なのに、彼らはさも昨日の事柄のようにして話す。
違和感が襲った。
「それは、今においても変わらない」
翔は、遙の手を取り、強く握った。
触れられたことに驚き、思わず身体が跳ねる。
「君が、必要なんだ」
段々と上がっていく体温。
心臓の鼓動は、聞き取れないほどに速くなっていく。
「え?」
真剣な瞳は、遙を真っ直ぐに見ている。
他の誰でもない、遙自身を。
だが、それらの全てが、彼のたった一言で冷めていくのが分かる。
「…『静御前』、それが君の前世の業」
震える唇で、声を絞り出す。
引きつった笑みを浮かべて、必死で虚勢を張った。
「ちょっと、待って」
彼の手を振り解き、椅子を倒して立ち上がる。
がたり、と静かな教室に乾いた音が響く。
耳に届けば、痛みすら感じた。
「私をからかっているの?」
微かな怯えを宿しながら、遙は笑う。
「確かに、よく出来た話ではあると思うけど」
「『兄上』も、この時代に転生している」
彼女の台詞を遮り、翔は立ち上がった遙へと強く言う。
次の台詞を、飲み込んだ。
「『源頼朝』が、何故か封印を壊して廻っているんだ」
ひとつひとつを強く紡ぐ彼の言葉に、嘘はどこにもない。
「封印が壊れ始めた今、一刻の猶予も無い」
翔も立ち上がり、遙の肩を掴んで視線を合わせた。
「頼む、『チカラ』を貸してくれ。『御前』様!」
速水は彼女の横で膝ま付き、深く頭を垂れた。
遙は思いっきり首を振ると、彼を突き放す。
己が身を護るように、1歩、また1歩と後退していく。
「分かんないよ!」
悲鳴にも近い叫び。
そうでもしなければ、壊れてしまうと言わんばかりに。
「さっきから、一体何?!」
忘れていた涙が、じわりと滲んでくる。
混乱と恐怖が同じ場所にあった。
「いくら私が莫迦だからって、騙され…っ」
「『政子』殿は」
その名前に、遙が反応する。
思わず、言葉を失った。
「『源頼朝』の北の方、つまり正妻であったヒトの名前だよ」
怯える彼女に近付かず、諭すように言葉だけを投げた。
聞きたくない情報に、耳を塞ぎたくなる。
「沢木というヒトは、君を『政子』殿と混同している」
彼が言っている真実はただひとつ。
言外に、沢木が『源頼朝』の生まれ変わりだ、と告げていた。
「君が…愛していた『政子』殿が、自分を裏切ったと思い込んでいるとしたら」
信じるには余りある事実が、遙の心を蝕んでいく。
理性は辛うじて残っている程度だ。
回転を止めた脳内神経は、ショート寸前である。
「きっと、『兄上』は手段を選ばない」
語気を強め、翔は尚も言い募る。
遙へと手を差し出した。
「僕達と共にいる方が安全に…」
「止めてよっ!」
後ろにあった机にぶつかり、ギギ、と床を擦る。
足をもつれさせ、倒れかけたが、机に寄りかかって持ちこたえた。
「全部冗談なんでしょ?」
笑っているのに、目は笑っていない。
異質なものでも見るように、2人を拒絶していた。
「2人して、私を騙そうとしているのよね?」
「違う!」
「信じられるわけ無いじゃない!」
翔がすぐ様否定するが、重ねて遙も否定した。
喉が枯れるほどに声を張り上げる。
嘲笑とも見える笑みを張り付かせて、遙は俯いた。
「例え、それが本当だったとしても、私には関係ない話だわ」
勢い良く顔をあげ、きつく2人を睨んだ。
「だって、私は『静』じゃないもの!」
騒がしい音を立てながら、遙は教室を出て行く。
「ま…」
翔が止める声すら、届かなかった。
伸ばした手が、虚しく宙を舞う。
「…あー、クソッ!」
忌々しげに、速水が悪態をつく。
その場に座り込み、頭を抱えた。
「何であれが『御前』様なんだよ!」
だん、と床を強く叩けば、机や椅子が微かに震えた。
「せめて記憶があれば…」
「仕方ないさ」
放っておけば、自分を責めてしまいそうな彼を察し、
翔は微笑って速水を見下ろす。
「突然、こんなこと言われたら誰だって混乱する」
けれど、と翔は口を開く。
「どんな方法を使ったとしても」
笑みを消し、瞳の奥の光を鋭く閃かせる。
悪寒すら感じる光に、速水は息を飲んだ。
「彼女は此方側にいてもらわなければ、困るんだ」
翔の耳の奥で、キィン、と何かが鳴いた。
大柄な男が、被っていた白い頭巾を後ろに下ろして、
縁側に腰掛ける主に尋ねる。
『これは?』
無下に廊下で転がされている刀は、
立派な拵えではあるが、どこか古めかしい。
不思議そうに持ち上げ、刀匠の名を探す。
『御神刀だ』
『は?!』
男は、主の発した予想もしない台詞に、思わず刀を取り落とす。
慌てて拾い上げ、主の手にしっかりと握らせた。
『昨日、夢に出て来てなぁ』
呑気に笑い、彼は刀を受け取った。
『何が、ですか』
恐る恐る訪ね返すと、更に腑抜けた笑みで簡単に返される。
『どっかの神様』
絶句し、顔面蒼白になる。
何故こんなにも、己が主は無頓着なのか。
大体にして、曲がりなりにも神から授かったものを、
その辺りに放置するという行動自体理解出来ない。
『目が覚めたら、本当にあるから驚いた』
『よ…義経、様?』
鞘から刀身を抜き放つと、光に反射して、白く閃いた。
いつの間にか傍に座っていた女が、少し驚いて口を開く。
『まぁ、本物』
今更、彼女がいつ現れたかなど聞くつもりもない。
訪ねたところで、あると思えばあるし、無いと思えば無いと、
掴み所の無い回答が返って来るのは目に見えていた。
『この神気は…片割れ…?』
『何?』
彼の手から刀を借りると、空へと翳す。
光が流れるように、切っ先から根元へと走った。
『もう1本、これと対となるものがあるはず』
す、と元に戻し、鞘へと納めた。
持ち主の手に、渡す。
『恐らくは…鎌倉殿の御許で御座いましょう』
伏せ目がちに語られる。
『何故?』
『対となる剣が選ぶのは、対となるヒトの魂』
義経の持つ刀をじ、と眺め、視線をそらした。
『それに』
嘆息して、女は着物を正す。
衣が音を立てて擦れた。
『それに?』
不自然に切られた台詞に、首を傾げる。
『この神は、遊戯を好まれる』
呆れた表情の後に、曇らせる。
彼女の名を呼ぶが、答えない。
しばらく押し黙って、ようやっと口を開いた。
『一騒ぎ、起きましょうぞ』
良く見知ったような物言い。
義経は何とはなしに尋ねた。
『お前は、あの神を織っているのか?』
『…さて、如何でございましょうか』
意味ありげに微笑むと、彼女は空を見上げた。
彼女が答えない雰囲気を読み、彼は頬を掻く。
『ふむ』
話が終わったことを確認し、大柄な男が主の手にある刀を見やる。
『して、名は?』
『義経』
ぽん、と紡がれた返事は、間違いなく彼の欲しい答ではない。
『貴方の名前では御座いませぬ!』
天然なのか、わざとなのか量りかねる彼の言動に、
男は胃が締め付けるのを感じる。
『『銀』』
雰囲気を斬り、女が短く答えた。
『『シロガネ』?また随分と小奇麗な銘だな』
肩に剣を担ぎ、とん、と叩く。
名に反応するように、キィンと鳴いた気がした。
おや、と思いながらも、口にはしない。
『この剣、恐らくは封印を施す『チカラ』を持っております』
『では、あちらは『鐵』。封印を壊す『チカラ』か』
こくり、と女は頷いた。
義経の的をいた台詞は、彼女を満足させたらしい。
ただし、女は続く言葉を紡いだ。
『こちらは贄が必要かと』
『鐵』は壊す封印の力こそが贄となる。
彼女は小さく呟いた。
『血、か』
血とは、そのまま生命を示す。
快く思わなかったのだろう。
彼はため息1つで、その剣を鞘に納めた。
『普通の剣としても使えるのだろう?』
目を伏せ、頷く。
『はい』
それを見届けると、脇へと刀を置いた。
女は己との間に置かれた刀をつ、と見やり、瞳を揺らす。
『では暫くの間、御神刀としては無用の長物だな』
『そう、あれば良いのですけれど』
彼女は、言葉を濁した。
『何か、あるのか?』
何度か瞳を瞬かせ、形の良い眉を歪める。
瞳を閉じて、頭を振った。
『今の時点では、何とも』
女が言おうとしないことを、無理矢理聞き出す事はしない。
義経とはそういう男であった。
『まぁいい』
心の置ける2人の前で、虚勢を張ったとて意味のないこと。
仕方なさそうに、微笑んだ。
『兄上に感づかれる前に、事を済ませてしまおう』
『御意』
彼に付き従う者達は、彼の言葉に頭を垂れた。
息苦しさと、暑苦しさで遙は目が覚める。
「…ん」
ぼんやりと映る天井は、紅く揺らめていて見えた。
不思議に思って、何度か瞬きを繰り返す。
「え…何?!」
慌てて、ベッドから起き上がった。
彼女が異常に気付いたときには、ドアの隙間から、
濁った色の煙が手を伸ばしていた。
上がり過ぎとも思える気温に、火の気を感じる。
「火事?!」
立とうとした身体は、眩暈を感じてふらついた。
恐らく、眠っている間に煙を吸い込んでしまったのだろう。
2階にある遙の部屋は、すでに熱気で満ちている。
階下の両親はどうしているだろうか。
重たい身体を引き摺りながら、彼女は階段を降りて行く。
火の粉が飛び散る廊下に一瞬怯みはしたものの、
両親の無事を確かめに足を動かす。
「父さ…ん、か…さん…っ」
声を出すと同時に、煙を吸い込んだ。
咳き込み、体を折るがあまり効果は無い。
やっとのことで、両親の寝室に辿り着く。
扉は開き、その中は明々と燃えていた。
ぞくり、と嫌な予感が駆け巡る。
走りたい衝動はあるが、体が追いつかない。
「と…」
呼ぼうとして、部屋の前に転がるモノに気付いた。
「…?」
霞みかけた目を凝らしてみる。
影の所為だけではない。
黒ずみ、ボール大のソレは、歪な形をしていた。
「…ひ…っ」
気付き、息を飲む。
恐怖で悲鳴すら出てこない。
ソレは確かに、ヒトの頭部であった。
見覚えのあるその頭部は、夕餉の頃には笑っていたはずの父親のもの。
何が起こったのか分からず、立ち竦みそうになる足を無理矢理に奮い立たせた。
壁に寄りかかり、何とか部屋の中を見ようと身を捩る。
赤。
朱。
紅。
あか。
アカ。
何もかもが真っ赤に染まっていた。
炎と、ヒトの血で。
本当に恐怖した瞬間、悲鳴など出ないのだろう。
非道く冷静に、ヒトの血とはこんなにも紅いものなのだと思う自分が居る。
それでも、涙だけが溢れ、声すら枯らした。
黒く、鈍く、何かが閃く。
震える身体が抑え切れない。
これは本当に自分の身体だろうか。
疑問さえ浮かんで来た。
そうしてまた、目の前の風景すら拒絶していた。
「さ…わき…せ…」
彼は、呼ばれると振り返った。
返り血を浴びながらも、その面は笑顔のまま。
手に、顔に、身体に、びっしりと血がこびりついている。
持っている刀は、血の色すら見えないほどに黒い。
「どうした、『政子』」
刀を横に薙ぎ、血を払う。
歩き、近付いてくる。
立っていられなくなり、その場にしりもちをついた。
思うように動かない手足で、必死に沢木から離れようともがく。
けれど、火の手は回り、逃げ場が無い上に、彼との距離は段々と狭められていった。
彼を罵ることも出来ず、かと言って受け入れるには余りある状況。
そもそも、この状況すら掴めていないのだ。
「お前を縛るものは、これで無くなった」
さも、良い事をしたと言わんばかりに、彼は微笑う。
刀を持たない左手を、遙の前に差し出した。
「私と共に、来い」
その手は真っ赤に染まり、元の肌色などとうに見えない。
硬直してしまった身体へと渾身の力を振り絞って、首を左右に振った。
怪訝そうに首を傾げた後、沢木は、手にした刀を縦に振り下ろした。
ぴたり、と遙の喉元で切っ先が止まる。
「…っ」
涙も、いつの間にか止まっていた。
炎の放つ熱が、身体の感覚を麻痺させていく。
恐怖ではなく、混乱。
遙の思考は、ソレに変わっていた。
(誰か)
無意識に、助けを乞う。
(誰か)
ほんの少し開かれた唇は、掠れた音しか紡がない。
だが、沢木の耳にはっきりと届く、名前。
「説破く…ん…っ」
彼の目が見開かれ、白い眼球に紅い筋が走る。
「私を裏切ると言うのなら」
彼女の首筋に当てられた切っ先が、
彼の元へと戻り、瞬時に横薙ぎに振られた。
「せめてこの手で殺してやろう」
愛憎の篭った瞳で、笑みを浮かべる沢木が遠くに思えた。
全てがスローモーションのように、ゆっくりと動く。
朦朧とする意識の中、何が起こっているのか理解も出来ずに、
瞳が閉じ、身体が傾ぐ。
「!?」
瞬間、激しい風が吹き荒れ、遙を包む。
目も開けていられないほどの強さ。
沢木は顔を両腕で覆い、目を瞑る。
「『政子』!」
手を伸ばし、吾妹子の名を呼ぶ。
目を開けた時には、炎が揺らめく様だけが残っていた。
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